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妻・詩織さんが明かす「石井琢朗が広島からヤクルトに移籍した理由」

2017年12月18日

妻・詩織さんが明かす「石井琢朗が広島からヤクルトに移籍した理由」

「実は広島をやめようとしたのは、今回が初めてではありませんでした。3年前にも一度、広島を出る決意をしていたんです」――。

2016年、一軍打撃コーチとして、広島カープを25年ぶりのリーグ優勝に導いた石井琢朗さん。再びリーグ優勝を果たした2017年10月5日に、同じく打撃コーチだった河田雄祐さんとともにカープ退団を発表。広島ファンのみならず多くの人に大きな衝撃をもたらした。11月にはヤクルトスワローズに移籍することが発表され、すでにコーチとしてその存在感を表している。

「移籍の理由」については「家族のため」とだけ報じられたが、それは急に決まったことではなかった。2001年に石井さんと結婚した、元フジテレビアナウンサーの詩織さんが語ってくれた、「家族の絆」とは。

自由契約で広島入り

そもそも石井が広島に最初に行ったのは2009年のこと。前年に横浜から引退を打診された、38歳のときです。石井は現役選手としての続行を希望し、自由契約での広島入りでした。

このとき、私たちには女の子が二人いて、長女がちょうど4月から1年生に入るところでした。広島に同行するかどうかと考えましたが、なにしろ自由契約の選手です。1年後、そのまま広島にいられるとはまったくわかりません。

さらに当時私は大学に戻って臨床心理の勉強をしており、「来年帰ってこざるを得ない可能性もあるなら、生活を大きく変えない方がいいね」と、石井単身で広島に行くことになりました。

幸い、契約を更新していただけて、もう1年選手を続けられることになりました。でも翌年もどうなるかわからない。もう少し単身にして様子を見ようということになりました。

このときはまだ、FacetimeやLINEビデオ電話もありませんでしたから、子どもたちは毎日毎日パパに手紙を書いていましたね。ちょうど長女が1年生になってひらがなを覚えたところだったので、日課になっていました。今でも石井はとってあるのではないでしょうか。

2012年にも退団を考えた

石井琢朗へ、子どもたちは毎日毎日パパに手紙を書いていましたね

2012年になってから、じつは長女が体調を崩し、学校に行けない時期がありました。私自身も学校に通いつつ、幼稚園に通う次女の世話をしながら、長女の体調のことで動いていたので、フラフラでした。石井は、長女のことも私のことも心配して、何回も広島から東京に帰ってきてくれていました。

2012年に、石井は現役からの引退を決意しました。「選手を引退する時が広島をやめるタイミングだろう」と前から話していたこともあって、初めて広島退団を真剣に考えました。家族が一緒に暮らす必要性を感じていたからです。

ただ、同時に、石井の本心では野球人としてもっと広島でやりたい、という気持ちがあることも、私はわかっていました。

石井も家族のことが心配で一緒に住みたいと思っている。でも石井の野球人としての希望もよくわかる――かなり悩んで、長女の病院の先生に相談しました。そのとき先生から、長女の環境を変えたほうが体調も良くなるのではと言われたことが、私の背中を押してくれました。

石井は野球を愛していて、私たちも生活があります。なにより、一緒にやりたいと思える球団にいられることは素晴らしいことです。それなら今度は家族が広島に行こう! ということになりました。

長女が4年生、次女が1年生の3学期のときでした。

そこで私たち家族3人が合流して、晴れて家族4人での暮らしがはじまったんです。

石井の故郷は栃木で、私は徳島。お互いに田舎で生まれ育ったので、広島は私たちが子供のころに育った環境に似ていました。自然に囲まれて、空気がきれいで、なんでも美味しくて。周りの方も親切で、本当にいいところでした。

2013年7月には長男も授かりました。

長女も体調がよくなり、学校に通うようになっていました。次女は素晴らしいテニスのコーチに出会うことができ、東京のときから姉と一緒に習っていたテニスに、一層のめりこむようになっていました。私たちは広島で、いろんな恩恵を授かりました。

初めての「退団願い」

次に真剣に、石井が退団を考えたのは2014年のことです。長女が「東京の中学に行きたい」という決意を固めたことがきっかけでした。

東京では中学につながっている附属の小学校に通っていたので、中学に行くのであれば6年生の2学期、つまり2014年の9月1日には小学校に戻らなければなりませんでした。やっぱり附属の中学に進みたい。だから戻りたい、と言うのです。彼女にとって広島は大好きなところだけれど、東京には昔からのお友だちがいる。ベースは東京にあったんです。

夫婦で話し合い、長女の希望を聞いてあげようということになりました。しかしここで問題が起きました。次女は、まだ帰りたくないと言ったのです。理由はテニスでした。年中から習い事の一環で始めたテニスですが、広島にきて素晴らしいコーチに出会い、見違えるほどに上達していました。家の隣に偶然テニスコートがあり、いつでも練習できるという恵まれた環境もありました。

ただ、私がその年の1月に虫垂の腫瘍摘出の手術をして、体も弱っている中で0歳児の長男がおりましたから、姉や義姉に広島まで来てもらって手伝ってもらっていました。そんな中、子供が東京と広島に分かれて暮らすには不安がありました。

そこで、まずは9月に私が長女と長男を連れて先に帰り、石井が2014年の秋でコーチをやめて年末まで次女と暮らし、それまでに東京でのテニス環境を探してから帰るようにしようと話しました。「10月でパパはやめるから、生活もなんとかなるよ」と次女に言っていましたし、最後になってしまうからと長男を連れて広島の試合を一緒に見に行きましたね。

早速、石井は球団に「東京に戻りたい」と打診をしました。ですが、球団本部長に「できれば残ってほしい」と言っていただいたんです。

この年、カープは初めてクライマックスシリーズに出ることができた年でした。石井も「もっと強くなれる!」という手ごたえを感じていただけに、部長のお言葉はよくわかったそうです。

何度も考えた末、石井は「やっぱりカープは今が面白い。絶対に強くなるから、もう少しやりたい」と私に言ってきました。選手でも田中君や菊池君、丸君など、多くの若手が伸び盛り。これから間違いなく育つ選手が多いと感じたのだそうです。

そんな環境でコーチができるのは幸せなことですよね。

結局、次女だけが帰ってくることになり、石井はまた寮生活に戻りました。

それから2016年に打撃コーチとなり、25年ぶりの優勝を祝うことができました。多くの方に石井の功績もたたえていただき、2009年には想像もしないことでした。本当に嬉しかったです。

家族が一緒に住めるのは今だけ

そして今年の4月、長女は中学3年生、次女は小学6年生になりました。

来年からは長女は高校生。それまで次女と一緒に週5回習っていたテニスをやめ、将来やりたいことができたと、大学に向けて勉強も頑張っています。大学に入ったとしたら、きっと家を出ていくのでしょう。

次女は、小学校1年生のころから「プロのテニス選手になりたい」と言っていました。その希望を聞いたコーチのご指導のもと、12歳以下のテニスランキングでは関東トップ、全国でも上位に入賞することもできました。

しかし次女が「プロのテニス選手になりたい」となると、トレーニングにしろ、スポーツ選手のメンタリティにしろ、私だけではどうしても理解できないことが増えてきていました。

例えば、母親としては、テニスがうまくいかなかったときのために、受験をしなくても進学のできる附属中学に行かせた方がいいのではと思っていました。しかし石井は「楽な道を残すな。退路を断て」と言います。次女本人もそれを望んでいます。

そこまでしてやらなくてもいいのでは……とつい思ってもしまうのですが、プロの世界は甘くありません。ストイックに努力し続け、プロのスポーツ選手として成功した石井の言葉は、とても説得力があります。

結果、姉と同じ附属中学ではなく、公立の中学に転校し、テニスに集中することにしました。これからプロになるために挑戦し続けるでしょうし、海外に出る可能性もあるでしょう。

さらに、4歳になる長男のこともありました。どうしても運動が得意ではない私とだと、外遊びに出ることも少なく、電車ごっこなどのインドア遊びが多くなります。石井自身も長男と一緒に遊ぶことができる時間が限られていることもわかってきたようです。

「家族5人で一緒に住めるのは今だけではないか」

「今は家族5人で一緒にいたほうがいいタイミングではないか」

石井も私もそう思ったのです。

そこで、今度は固い決意で、球団に「今年で退団させてください」と相談をしたのでした。

(※引用元 現代ビジネス

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