「これからも謙虚でいく」。広島・小林樹斗は、誰に指図されるのでもなく、自分でそう決めた。それは、世代トップクラスの投手として名前が全国に知れ渡り始めた高校3年の頃。これから想像を超える評価をもらえることもあるかもしれない。そんな日が来ても勘違いせず、素直に、謙虚で、真摯に野球に取り組むと心に誓ったのだ。
「謙虚でいなさい」 野球の経験のない父からの教え
振り返れば、小さい頃に父・英樹さんから何度も伝えられていた。「謙虚でいなさい」。その教えを忘れることなく、高校生でプロ注目選手となった自分自身に言い聞かせるようになった。
野球の経験のない父は、少年野球の試合をよく見に来てくれた。「今日の試合、カッコよかったなー」「今日の投げ方、めちゃくちゃええと思うで」。父から褒められると、野球がもっと好きになった。新しく買ってもらった道具は、枕元に置いて一緒に寝た。そうして小林少年は、すくすくと育っていった。
中学時代も智弁和歌山に進学後も、両親は毎試合のように現地で応援してくれた。初めて甲子園のマウンドに立ったのは2年春の選抜大会。大会期間中は両親への連絡を控えて、目の前の試合に集中した。迎えた準々決勝・明石商戦では、自己最速を大幅に更新する147キロを計測して観客を驚かせた。しかし、それを上回る同学年がいた。同点の9回。のちにオリックスに入団する来田に自慢の直球を捉えられ、サヨナラ本塁打が右翼席に消えた。
悔しくて、悔しくて仕方がなかった。それでも甲子園に立てた感謝を忘れる青年ではない。試合後、一本の電話を入れた。「ここまで育ててくれてありがとう」。そう両親に伝えてから自宅に帰った。
「甲子園でもっと勝ちたかった。だけど、あそこまで行くことができたのは、お父さんとお母さんがいてくれたから。改めて感謝の気持ちを伝えたいと思ったので、電話で少し話をしました」
「イチローさんに会ったときもそう感じた」
高校最後の1年は、新型コロナウイルスに翻弄(ほんろう)された。春も夏も甲子園大会は開催されなかった。3年生で聖地に立てたのは、8月に開催された交流試合の1試合のみ。救援投手として3イニングしか経験できなかった。
本来であれば、甲子園でフル回転してスカウト陣の評価を上げることになっていたかもしれなかった舞台だ。コロナ禍の不運を嘆いてもおかしくはないだろう。そんな状況でも、どこまでも謙虚だった。「みんなで試合できたことが何よりもうれしかった。普通ならあり得ないことだから」。智弁和歌山は交流試合に登録した選手20人中17人が出場。小林にとっても、個人の評価より一人でも多くの仲間と聖地に立つことの方が大切だった。
中学生のときからそうだった。中学進学時には地元のクラブチームではなく、中学校の軟式野球部でプレーすることを選んだ。その理由は「小学校のときの仲間と一緒に野球をしたかったから」。誰よりも速い球を投げられることを誇るでもなく、切磋琢磨してきたチームメートとともに勝利を目指すことが純粋に楽しかったのだ。
「謙虚でいる」との決意が間違いではなかったと確信した出来事がある。高3の12月、あのイチローさんが智弁和歌山を訪れて指導する機会に恵まれた。レジェントがどこまでも真摯に野球と向き合う姿を目の当たりにして思った。「一流の選手であればあるほどに謙虚。イチローさんに会ったときもそう感じた」。自分が大切にしてきた考え方をこれからも貫こうと決めて広島に入団した。
辞書で「謙虚」と引くと「ひかえめですなおなこと。謙遜」とある。日本中から注目されるプロ野球選手が、控えめで居続けることは簡単ではないかもしれない。ただし、広島には見本になる投手が多くいる。選手会長の大瀬良は、誰よりも謙虚に野球に取り組む姿勢で同僚から慕われ、抑えの栗林は、謙虚を座右の銘とし、グラブに刺しゅうまで入れている。
小林はコンディション不良などで長引く今季の2軍生活にも謙虚に練習に励んでいることだろう。高卒3年目の来季、非凡な才能が本格的に花開いたとしても、きっとその謙虚さは変わらない。(河合洋介)
(※引用元 文春オンライン)