「辞めるのであれば、ここで辞めたい」
2019年に丸佳浩のFA移籍に伴う人的補償で、広島に移籍した長野久義が、無償トレードで5年ぶりに古巣・巨人に復帰した。他球団に移籍した生え抜き選手を現役最晩年に古巣が呼び戻す“人情トレード”は、過去にも枚挙に暇がない。【久保田龍雄/ライター】
来季から西武の指揮をとる松井稼頭央監督もその一人である。03年オフに海外FA権を行使してメッツと契約した松井は、ロッキーズ、アストロズ時代も含めてメジャーで7年間プレーしたあと、10年オフに楽天と契約し、日本球界に復帰した。
楽天では15年に史上46人目の通算2000安打と史上18人目の通算350盗塁を記録。42歳になった17年にも、史上100人目の通算200本塁打を達成したが、NPBでは自己最少の44試合出場にとどまると、オフの10月27日に戦力外通告を受け、コーチ就任を打診された。
だが、松井が現役続行を希望して退団を発表すると、その日のうちに古巣・西武が「年齢的にはいっているが、ウチのOBでもある」(鈴木葉留彦球団本部長)と、かつての“ミスター・レオ”の獲得に動く。
松井も西武から声をかけてもらったことを「何かの運命かなと思っていました。辞めるのであれば、ここで辞めたい」と感謝し、15年ぶりの復帰が決まった。
そして、翌18年を最後に現役引退。「今後もユニホームを着させていただいて、野球には携わっていきたい気持ちもあります」の希望どおり、西武の2軍監督に迎えられると、1軍ヘッドコーチを経て監督就任という“王道路線”で、「新生西武」を託された。結果的に最後の1年を古巣でプレーしたことが大きな意味を持ったことになる。
松井のほかにも、西武のエースとして活躍した工藤公康や松坂大輔も現役最晩年を古巣・西武で過ごしており、これも“西武カラー”と呼べるかもしれない。
「よし、帰ってこい。その代わり給料は安いぞ」
引退危機の崖っぷちから奇跡の復活をはたし、現役最晩年を古巣・中日でプレーしたのが、山崎武司である。
1987年にドラフト2位で中日に入団した山崎は、96年に本塁打王のタイトルを獲得したが、打撃不振に陥った2002年に2軍落ちを味わうなど、出場26試合に終わると、球団にトレードを直訴し、平井正史との交換トレードでオリックスに移籍した。
だが、オリックスでも、04年に伊原春樹監督と起用法をめぐって対立し、オフに戦力外通告を受けると、36歳という年齢もあり、一度は現役引退を決意した。
そんな矢先、楽天の田尾安志監督が声をかけてきた。翌年から参入する新球団・楽天は選手層が薄く、田尾監督も“エクスパンションドラフト”を要望するほど、チーム編成に苦労していた。通算211本塁打(当時)の山崎は4番候補として必要な存在だった。
思いがけず楽天に拾われる形になった山崎は、野村克也監督時代の07年に43本塁打を記録し、史上3人目の両リーグ本塁打王に輝く。09年には史上最年長の41歳で100打点以上(107打点)をマークした。
もし球界再編がなければ、ひっそりと野球を辞めていたはずの男が、もうひと花もふた花も咲かせるのだから、人間の運命の不思議さとしか言いようがない。
そして11年オフ、43歳で楽天を戦力外になると、「自分の中の炎をどうしても消すことができない」山崎は、古巣・中日への復帰を球団幹部に打診した。
返事は「よし、帰ってこい。その代わり給料は安いぞ」だった。年俸は2億5000万円から3000万円にダウンしたものの、3000万という数字は、山崎ほどの実績のある選手に「1000万や1500万円では失礼」という配慮の結果であり、出来高で上乗せする条件も加えられた。
現役最後の2年間を中日でプレーした山崎は13年、「27年間もやれたのは誇り」と完全燃焼し、引退試合となった10月5日のDeNA戦で通算1834本目の安打を記録したあと、ナインの手によって7度、宙を舞った。今季限りで引退した福留孝介も山崎同様、最後の2年間を古巣・中日で終えている。
入団テストを経て再び巨人入り
“人情トレード”とは一線を画し、自ら古巣への復帰を申し入れ、入団テストを経て再び巨人のユニホームを着たのが、西本聖である。
ドラフト外入団から這い上がり、5年連続二桁勝利を記録するなど、江川卓とともにダブルエースになった西本は、中日移籍1年目の1989年にも自身初の20勝を挙げ、最多勝と最高勝率のタイトルを獲得した。
その後、椎間板ヘルニアの影響で成績を落とし、92年オフに中日を戦力外になると、翌93年はオリックスで5勝5敗の成績を残したが、契約更改で「5勝したら1000万円プラス」の約束が守られなかったことから、交渉が決裂し、自由契約になった。
現役続行を希望する西本は、若手時代に自らを徹底的に鍛えてくれた大恩人・長嶋茂雄が監督復帰をはたした古巣・巨人への復帰を熱望し、翌春のキャンプで3度にわたる入団テストの末、晴れて合格をかち取った。
だが、それは“茨の道”の始まりでもあった。自著「長嶋監督の20発の往復ビンタ」(小学館)によれば、長嶋監督は「よく頑張った。おめでとう」と言いながらも、「オレの立場もわかってくれ」と内心の苦しさを吐露したという。首脳陣の中に西本の復帰を快く思わない者がいたのだ。
翌94年、チームは5年ぶりの日本一を達成したが、西本は1度も1軍に呼ばれず、長嶋監督に恩返しする機会も与えられないまま、38歳で現役を引退した。翌年1月に行われた有志主催の引退試合では、7回2死から長嶋監督自ら代打で登場し、これまでの労に報いてくれた。
公式戦ではなかったとはいえ、一生の思い出に残る登板で有終の美を飾ることができた西本は「(長嶋監督に)来ていただいただけじゃなく、打席にも立ってもらった。僕は最高だと思います」と感激の涙を浮かべた。
(※引用元 デイリー新潮)