球宴で3発、日本シリーズで決勝打
長く歓喜と無縁だった広島が初のリーグ優勝に輝いたのが1975年。このとき、チームを支えたのは2人の助っ人、登録名「シェーン」ことリッチー・シェーンと、ゲイル・ホプキンスだった。
ただ、チームはセ・リーグを制したことで燃え尽き、日本シリーズでは黄金時代の阪急(現在のオリックス)に苦杯。日本一には届かなかった。助っ人2人は翌76年いっぱいで退団。
その後継者となったのが、エイドリアン・ギャレットとジム・ライトルだった。ちなみに、背番号でも「5」がシェーンからギャレット、「6」がホプキンスからライトルに受け継がれている。今回の主役は、ギャレット。わずか3年の在籍ながら、印象に深く残る活躍を見せた助っ人だった。
来日1年目の77年は35本塁打と、もちろん問題のあるわけではないものの、とりわけ目立つ数字でもないのは事実。ただ、守備の器用さで印象を残す。定位置は左翼ながら、ギャレットは11試合でマスクをかぶった。
助っ人の捕手も、外野手がマスクをかぶることも、ともに珍しいことだ。翌78年は打棒でもインパクトを残す。4月に当時の最多となる月間15本塁打と開幕から打ちまくったギャレットは、球宴にも出場。
本拠地の広島市民球場で開催された第1戦では、七番打者としての出場だったが、クリーンアップを担うチームメートの山本浩二や巨人の王貞治が沈黙する中、第1打席に右翼へ先制の3ランを叩き込むと、第2打席でも右翼へ追い上げの2ラン、第3打席こそ凡退したものの、第4打席でも右翼へソロを放つ。
球宴のゲーム3本塁打は初めての快挙だった。ペナントレースでも40本塁打に到達。助っ人の40本塁打も広島では初めてだった。
その翌79年は27本塁打にとどまるも、広島は2度目のリーグ優勝。ギャレットは近鉄との日本シリーズ第3戦(広島市民)で決勝打を放って、初の日本一にも貢献している。
これを見届けるかのように、オフに退団。守備の器用さと大舞台での打棒でインパクトを残した助っ人だが、通算338安打、102本塁打、247打点は、いずれも広島の助っ人で歴代の五指に入る数字だ。(写真=BB)
(※引用元 週刊ベースボール)