
これまで何人もの名投手を生み出してきた球団、広島東洋カープ。このチームで初めてエースナンバーの背番号「18」を付けた選手は、今では忘れられつつある。
あまりにも弱かったチームを支え、そして伝説の400勝投手・金田正一のライバルでもあった“小さな大投手”の名は、長谷川良平。そんな彼のキャリアを、『カープ不朽のエース物語』(迫 勝則著、南々社)から一部抜粋し、お届けする。
日本のプロ野球が1リーグ制から2リーグ制に移行した1950年。セリーグに参入した広島カープの新人のなかに、ひときわ小柄な投手(当時19歳)がいた。身長167センチ、体重60キロだった。
ただ数字だけを書いても、マウンド上の長谷川の姿を想像するのは難しいかもしれない。いまのカープ選手で言えば、同じ身長である羽月隆太郎(167センチ)がマウンドに立ったときの姿を思い描いてみてほしい。そうすると、少しはイメージできるかもしれない。ただ体重は、長谷川の方が約13キロも軽かった。
長谷川は愛知県の半田商工を卒業し、その後、安田商店、新田建設など2年足らずの間に、ノンプロチームを渡り歩いていた。その頃、一人でも多くの選手を集めたいカープから声がかかったのである。
「とりあえず広島に来てもらえないだろうか」
こうして長谷川は、テストも受けずにカープの一員になった。小柄なのにフットワークに優れ、球さばきが巧い。彼のプレーを見た当時の監督代行・白石勝巳は、彼を名遊撃手に育て上げることを本気で考えた。ところが長谷川がこれを固辞。そのときの長谷川の言葉が残っている。
「野球をやるからには、やっぱり投手に一番魅力がある。自分の一挙一動がグラウンドで注目され、自分の投げた球がすべてを決めるからだ。投手というのは、全知全能を傾ける価値のあるポジションだ」
長谷川の投球は、始動でひょいと跳び上がり、その反動を利用して横から後ろに腕を回し、その勢いで投げ込む特有の投げ方である。形の分類としては、典型的な右投げサイドスローだといえる。この投手が入団1年目にいきなり15勝を挙げた。そしてすぐに“小さな大投手”と呼ばれるようになる。鋭い腰の回転を活かし、右打者の内角に食い込むシュートを武器にした投球で、セリーグの打者から嫌がられるようになった。
「400勝投手」金田正一のライバルとして、しのぎを削った
当時、長谷川はこう語っている。
「投球というのは、力をもって押し込むのではない。相手の力を利用するのだ」
彼は勝負勘というのだろうか、相手打者のクセを見抜く力を持ち、少ない球数で打ち取ることを最良の結果とした。その一方で負けることが大嫌い。決して逃げることなく、打者に立ち向かっていくことを信念とした。彼はこう語っている。
「周りに流されたら、終わりだという抵抗心があった。弱いチームだとか、貧乏なチームだとか、とにかく逃げ場を作りたくなかった」
まだ戦後の混乱期が続いていた1950年代。長谷川と同期で国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)に入団した大柄な投手がいた。同じ時代に、同じグラウンドで投げた日本歴代最多の400勝投手・金田正一(国鉄→巨人)が、長谷川のライバルになった。共に愛知県出身。無類の“負けず嫌い”。そして二人ともチームが弱かったため“孤高のエース”と呼ばれた。
この両雄の対決で世間が沸いたのは、長谷川が30勝、金田が29勝を挙げた1955年のことだった。勝敗に絡んだ6回の直接対決では、4勝2敗で金田に軍配が上がったものの、年間の成績では長谷川が上回った。
あの頃は“打撃の神様”と謳われた川上哲治(巨人)や、物干し竿みたいな長尺バットで長打を放つ“ミスタータイガース”の藤村富美男らを打ち取る長谷川の姿が、カープファンとしてたまらなくカッコ良く見えた。
これを人間が自然に持つ感覚で書くならば、「柔能(よ)く剛を制す」であり、チームとしても「弱き者が強き者を下す」という図式だったからである。それが被爆都市ヒロシマのファンとして、限りなく心地よかったのだ。
しかし金田との違いが出はじめたのは、57年に長谷川が右肩を痛めたときからだった。この故障によって、長谷川は以降の6年間で43勝に留まり、念願の200勝まであと3勝に迫っていたのに、63年に引退の決断をした。
現役14年間での登板は621試合(1年平均で約44試合)。なんと、いまでは考えられない3276回を投げたのだ。これを平均してみると、故障後の6年間を含めても1シーズンで約234回を投げたことになる。
彼は“小さな大投手”と呼ばれたが、いま振り返ってみると、同時に“小さな鉄人”でもあったのだ。長谷川は引退後、投手コーチの経験を経てカープの第5代監督(1965-67)に就任した。
永久欠番の打診もあったが、断った
63年に長谷川が現役を引退してから、すでに60年以上が経過する。いまでもカープのエース史は、その源流として長谷川を抜きにしては語れない。「いまカープのエース番号は?」と訊くならば、おそらく誰でも「18」と答えるだろう。長谷川は、その番号を背中に付けたカープ最初の投手だったのである。その「18」について、彼の長男(純さん)はこう話す。
「父は球団から18番を永久欠番にするという話を断ったと話していました」
その理由は、こうだった。
「本人はあと3勝で200勝に届かなかった。新たに育つ18番に白星を重ねてほしいと願ったからでした」
その後、白星は佐々岡真司、前田健太らによって着々と積み上げられていった。ところが2016年に渡米した前田のあと、しばらくこの番号が使われることはなかった。はっきり言えば、そういう投手が現れなかったということである。ところが2019年。この番号が佐々岡真司監督(当時)の強い薦めもあって、この年のドラフト1位入団の森下暢仁に託されることになった。こうして長谷川を起点とした“カープの18番”は、いまも綿々と受け継がれている。
「千里の行も一歩より始まる」。彼は“カープのエース論”を語るとき、その最初のバトンを手に持った投手として大切な役目を担った。
チーム勝利数のうち、4割を稼いだのが長谷川だった
長谷川が投げた14年間のカープの成績は、1シーズンの例外もなく、Bクラスだった。最下位が3回、5位が7回、4位が4回。つまり“優勝”の2文字などは、ファンが軽々しく口にするようなものではなく“夢のまた夢”だったのである。そうなると、エースの価値は相対的に高くなる。私の子どもの頃のイメージで書くならば「カープはいつも敗ける。しかし長谷川が投げるときだけは別の話」という単純な図式になった。
その頃は、長谷川が投げる試合だけ、街のいたるところから大音量のラジオの実況放送が聞こえてきた。おそらくラジオの持ち主が、その状況を周囲の人たちに伝えたかったのだと思う。この状況は、数字の上からも実証できる。長谷川は1955年から3年連続で20勝以上を挙げた。特に全盛期と言われた1951~58年の8年間は、チーム全体の4割以上が長谷川の勝利だったのである。
カープが敗けるのは、日常的なこと。どうということはない。しかしカープが勝つと、街中がパッと明るくなる。実は時代は流れても、その広島の街の傾向は、いまでも変わっていない。今に生まれ経済的にも恵まれた読者は、驚くことなかれ。当時のカープ球団は、給料の遅配、宿舎の食料もままならなかった。遠征のための移動は、2等の夜行列車。エースの長谷川でも、座席や通路に新聞紙を敷いて寝た。長谷川は引退後にこう述懐している。
広島の街には「良平さん」がたくさんいる
「思い出と言えば、列車の通路で寝たことでしょうか。疲れていたせいもあって、体を覆った新聞紙の“暖かさ”が身に沁みて有難く、忘れられません」
そんな時代背景のなかで、チームを背負って立ったエースの存在というのは、単にカープ史の一ページの一投手の物語に留まらなかった。彼は、原爆で廃墟と化したヒロシマの街の復興物語の主人公でもあったのだ。子どもの頃から体力に恵まれなかった長谷川は、自身の知恵と修身。人並み外れた“攻める気持ち”。そして日常のたゆまぬ鍛錬によって、カープ投手の礎を築いた男だった。
あの頃の信じられないような球団の貧困に、文句一つ言わず耐え抜き、小さな体で球界の大打者たちに臆することなく勇敢に立ち向かった姿は、一面焼け野原と化したヒロシマの街にとって希望の光でもあった。いまでも広島の街で“良平さーん”と呼ぶと、2、3人の60~70代の男性が振り返る……と言われる。もちろん、私の家内の従弟のなかにも“良平さん”がいる。
もし今のカープ投手のなかで、「長谷川良平の物語」を知らない人がいたとしたら、誰か彼の“不屈の投球魂”を教えてあげてほしい。彼は、その後しばらくの間“ミスターカープ”と呼ばれた。
(※引用元 文春オンライン)