「どうしても結果が出ません。4番を外してください」新井貴浩が一軍の打撃コーチだった私のところにやってきた。
2003年、金本知憲が阪神にFA移籍後、4番に座った新井は、精神的支柱だった兄貴分が抜け、この年は打率・236、19本塁打と低迷。当時26歳だった新井の将来性を見込んで辛抱強く起用した山本浩二監督は、シーズン中に新井と私を監督室に呼び、こう励ました。
「オレも27歳からブレークした。それまではそこそこの数字しか出していなかった。おまえはまだ26歳なんだから、もう一回頑張ってみろ。今が踏ん張りどころや」
山本監督は現役時代、大学(法大)出身者の日本記録となる通算536本塁打を放っている。4度の本塁打王、3度の打点王のタイトルは、いずれも30歳以降。大器晩成型の選手だった。
本拠地でナイターがある日は、灼熱の太陽が照り付ける真夏だろうが、午前中から新井と毎日特打を繰り返した。球を待ち過ぎるあまり、すぐに追い込まれ、ボール球に手を出す悪循環に陥っていたため、「好球必打」を徹底させた。
2年後の05年、打率・305、94打点、43本で本塁打王を獲得。この時は自分のことのようにうれしかったが、43発や自身初の3割超えより、引っ張り専門だった新井が逆方向へ打てるようになり、打点が36から94に増えたことを私は評価した。
■大下ヘッドの過酷な練習に耐えた頑健な体
駒大から1998年のドラフト6位で入団後、大学の先輩でもある大下剛史ヘッドコーチに徹底的にしごかれ、ここまでの選手に成長した。
駒大時代に突出した成績を残したわけではない。守備力もなかった。だから、朝からノックを受けて泥にまみれた。守備から打撃まで、やることは山積みだった。大下ヘッドからすれば、後輩だし、なんとかモノにしてやりたいということだったのだと思う。
地元・広島出身で体が大きいという長所こそあったものの、周囲は新井を「化けたらいいな」程度にしか見ていなかった。モノになった一番の要因は、大下ヘッドにしごきのような過酷な練習を課されても、故障をしない頑健さがあったことだ。
07年オフに阪神にFA移籍した時は驚いたが、14年オフに古巣・広島に復帰。FAでチームを出た選手は二度とカープに戻れないという暗黙の了解があったが、新井のプレーや人間性がファンや球団に受け入れられたということだ。
16年に2000安打を達成。まさかあの新井がこんな大選手になるとは……。名球会入りした名選手の中で、新井ほど練習を積んだ選手がいただろうか。(内田順三/前巨人巡回打撃コーチ)
(※引用元 日刊ゲンダイ)