昭和50年シーズンのセ・リーグを制したのは「赤ヘル」こと広島カープである。3年連続最下位から初優勝。新聞には連日「赤ヘル」の見出しが躍った。
実はスポーツ紙に初めて「赤ヘル」の見出しが載ったのは、オールスターゲームが終わり、後半戦が始まった7月25日の中日戦から―といわれている。それまでは〝赤帽旋風〟などと表現されていた。なぜ「赤ヘル」なのか。それは49年オフに就任したルーツ監督の提案だった。
「カープの選手はいいものを持っているが〝負けぐせ〟がついている。勝つ喜びを選手に持たせたい。そのためには燃えるような闘志が必要だ」
闘志を表すために帽子からアンダーシャツ、ストッキング、胸のネーム、背番号まですべてを「紺」から「赤にしろ」と球団に要請した。だが、急にいわれても無理、予算もない。とりあえず、帽子だけ…となった。だから「赤ヘル」。だが、その「赤ヘル軍団」を率いてペナントレースを戦ったのはルーツ監督ではなかった。
4月27日の阪神戦(甲子園)で掛布への松下球審のボールの判定を巡りルーツ監督が猛抗議。止めに入った竹元一塁審判に暴行し「退場」を命じられた。だが、「イヤだ!」といって出ない。重松代表が説得しなんとか退場させたものの、29日の中日戦の指揮権を放棄。ホテルにたてこもった。
「契約では現場のことは私にすべて任されている。権限を侵害された。これでは私のめざす野球ができない」
ルーツ監督はわずか15試合(6勝8敗1分け)を指揮しただけで退団した。
不思議なことに、この騒動中、コーチや選手は誰も引き留めようとはしなかった。逆に29日の指揮権放棄に対し「監督から罰金を取れ!」という声まで起こった。ルーツ監督とコーチ陣の間は最悪状態にあったのだ。
「あの男は日本人をバカにしている。機嫌が悪いと当たり散らし、オレたちコーチを召使いとしか思っていない」
あるオープン戦の試合終了後、コーチ陣は全員で外食に出かけた。門限の午後10時を少し回って宿舎に帰ると、ロビーに仁王立ちで待っていたルーツ監督が怒鳴り散らした。この夜の集合を、コーチ陣の〝造反〟と受け取っていたのだ。
写真をご覧あれ。審判につかみかかるルーツ監督を誰も制しようとはしていない。このあと古葉コーチが「監督」に昇格した。チームが一丸となったのはいうまでもない。(敬称略)
(※引用元 THE SANKEI NEWS)