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2014年、あの決断に至る真実/ニューヨークと広島に感謝を込めて

2021年9月16日

2014年、あの決断に至る真実/ニューヨークと広島に感謝を込めて

40歳になるシーズンをどこで過ごすのか――。

2014年12月、僕はこれまでになく悩んでいた。オファーを出してくれたのは、報道で出ていた通りその年まで在籍していたヤンキースとメジャー複数球団。そして…古巣、広島東洋カープ。

引退も視野に入ってくる年齢で、これだけ多くの球団から評価をしてもらい、報道に出ていたような大きな契約のオファー(TPT編集部注・単年20億円以上)もいただいていた。選択肢を持つことができた自分は、相当な幸せ者だと言っていい。何よりメジャーがまだ僕を必要としてくれている、そのことが素直にうれしかった。

ただ、やはり残された野球人生がそう長くないことを思うと、何を決め手に選べば良いのか、自分でも分からなくなってしまっていた…。

1分1秒と変わってゆく考え。

蕁麻疹が出るほど悩みに悩んでいた。眠れない日々で消耗し、気がついたら年の瀬が迫っている。日本の野球シーズン始動はアメリカより1カ月ほど早い。だからカープからは「年内には返事をくれないか」と言われていた。

気持ちの面で自分を奮い立たせる“何か”がなければ、到底成しえない。そう考えた時、僕の脳裏に浮かんできたのは、カープファンの姿だった

プロの投手がマウンドに立つ時、ファンが観ている時点で負けて良い試合は一つもない。子どもたちにとって一生の思い出に残る1試合になるかもしれないし、闘病中の方にとっては人生最後の1試合になるかもしれないからだ。

日本だろうとメジャーだろうと、それは全く同じだ。誰かにとって“一生に一度”となる試合の価値は変わらない。だから、どの試合も可能な限り万全な状態で、ローテーションを1シーズン守り続けることが、僕にとって“最低限”の仕事だった。

とはいえ、これは決して容易なことではない。年齢からくる身体の衰えを感じるなか、メジャーで中4日、毎年200イニング近くを投げ続けることは、体力の限界を超えることを意味していた。気持ちの面で自分を奮い立たせる“何か”がなければ、到底成しえない。

そう考えた時、僕の脳裏に浮かんできたのは、カープファンの姿だった。カープに恩返しをするというモチベーションのもとでプレーすれば、プロとして、選手として、今よりワンランク上の力を、もしかすると発揮できるんじゃないか――。

メジャーに挑戦するかどうか悩んでいたとき、広島市民球場のライトスタンドのファンの皆さんが僕に掲げてくれた横断幕。

「我々は共に闘って来た 今までもこれからも…」というメッセージ。

ずっと、僕の心に残っていた。

口を衝いて出てきたのは、この一言だった。「帰ります」

忘れもしない、2014年12月26日。

考えがまとまらないまま、携帯電話を持っては置き、持っては置きを繰り返した。そのことだけは憶えている。

やっとの思いで、カープの球団本部長・鈴木清明さんに電話をかけた時、口を衝いて出てきたのは、この一言だった。

「帰ります」

そう告げたあの日の記憶は、実はおぼろげだ。それくらい悩み抜き追い込まれていた。

「帰ります」と言ったあとは二の句を告げず、1〜2分黙り込んでしまっていたことだけは何となく憶えている。大きな決断をして解放された安堵だったのか、アメリカを離れる寂しさだったのか、さまざまな感情で胸中がぐるぐるしていたんだと思う。

「お前、本当に戻ってきて大丈夫か?」と心配する鈴木さんの声が聞こえてきた。「その気持ちが本当なら、ファックスを送ってくれ」と催促され、サインした契約書を送信した。それが、あのカープ復帰を決めた一日の真実だ。

「移籍」という決断は常にハードなものだったし、簡単に割り切れないことがたくさんあった

決断するまで、ほとんど誰にも相談しなかった。何人か親しい人にアドバイスをもらうことはあったけど、結局最後は自分で決めないと後悔すると思っていたからだ。

仮に両親がまだ生きていたとしたら、もしかしたら相談していたかもしれない。元プロ野球選手の父からは「もう一度メジャーで挑戦した方がいいんじゃないか」と言われていたような気がするし、母からは「最初からアメリカなんか行かずにずっと広島にいなさい」と言われていたような気もする。

そもそも、僕は元来、一つのチームに愛着を持って長くプレーしていたいタイプの人間だ。性格的に器用でもなく、相手チームの選手と仲良く話すこともできない。違うユニフォームを着ている人に対して、敵対心を持っておかないと戦えない。そんな弱い人間だった。

だから、「移籍」という決断は常にハードなものだったし、簡単に割り切れないことがたくさんあった。一方、時には野球人として階段をのぼっていくために必要なものでもある。広島カープに始まり、ロサンゼルス・ドジャース、ニューヨーク・ヤンキース、そして再び広島へ。

どの球団も本当に大切だったし、どれも悩み抜いた末の結論だった。

あのジーターの引退試合は、僕にとって大きな影響を与えることになった

僕がこの決断に至るなかで一つの指標になったのが、2014年シーズンの本拠地最終戦。

ヤンキースのスーパースターであるデレク・ジーターが、鳥肌の立つような展開で引退の花道を自ら飾ったラストゲームだった。実はこの日に僕も先発して忘れられない試合になったのだが、それは後述することにする。

この試合でのジーターの姿を見て、本物の“プロフェッショナル”とは「自分にしかできないことをして、ファンの方や子どもたちに夢を与える存在」なのだと思うに至った。

メジャーで夢を与え続けるのか、日本に戻ってもう一度夢を与えるのか。今の僕にしかできないことは何なのか…。それは、メジャーにも求められるレベルを保てているなかで、広島に戻るという選択をすることなのかもしれない。決断を下したのはその3カ月後だったが、そういう意味であのジーターの引退試合は、僕にとって大きな影響を与えることになった。

ヤンキー・スタジアムにかかる美しい虹…。あぁ、これは本当にジーターのためにあるゲームなんだ、僕も彼のためにやるしかない、と腹をくくった

その2014年9月25日のヤンキース対オリオールズ戦。

ヤンキースのシンボルともいえるデレク・ジーターの引退試合と位置づけられたその試合で、僕は先発を言い渡された。

スーパースターの花道を飾る試合なんて、プレッシャーも通常の比じゃない。光栄に思う一方で「なんで自分なんだ?」と少し恨めしく思う気持ちもあった。

そんな僕の思いを知ってか知らずか、前日は警報級の大雨だった。当日の朝も降り続き、もしかしたら試合はできないんじゃないかと疑うほどだった。

それでも「オンタイムでプレーボール」と言われブルペンに向かうと、信じられない光景が目に飛び込んできた。ヤンキー・スタジアムにかかる美しい虹…。

あぁ、これは本当にジーターのためにあるゲームなんだ、僕も彼のためにやるしかない、と腹をくくった瞬間だった。

そのわりに立ち上がりは最悪で、初回から2者連続ホームランを被弾。長い野球人生でもなかなかない経験で、本来は打った相手選手に向けられているはずのヤンキースファンのブーイングも、まるで自分に向けられているように感じた。

最低でも試合を作らなければと必死に立て直し、その後はなんとか7回まで無失点。僕は「もう十分」と思っていたが、監督から「もう1イニング行ってみろ」と促され、8回まで投げ続けた。さすがに9回にクローザーと交代する時、今度は「いったんマウンドに上がって、ニューヨークのファンに帽子を取って挨拶していいぞ」とまで提案してくれた。

そのシーズン、先発投手が次々と離脱していったなかで、監督はローテーションを守り切った自分に対するリスペクトを示してくれたのだろう。その気持ちはありがたかったが、僕は丁重にお断りすることにした。

性格上、スタンディング・オベーションのためだけにマウンドに上がることは好きではなかったし、やっぱりその日は「ジーターの日」だったから。邪魔をしてはいけない…超満員のスタジアムに僕はそう感じていた。

本当のドラマは僕が降板した後に待っていた。

5-2とリードを保っていた8回から一転、9回に次の投手が打ち込まれてあっという間に同点に。僕の勝利投手の権利も消え、ヤンキー・スタジアムは異様な雰囲気に包まれていた。

そして迎えた9回裏。一死二塁でジーターに打席が回ってきたのだ。

「ジーターなら何かを起こすはず」。たぶん、球場にいた誰もがそう思っていたはずだ。そして彼が期待を裏切ることはなかった。本拠地最終戦で、見事なサヨナラヒットで逆転勝利。ヤンキースファンとジーターの絆が生み出した、漫画のような幕切れだった。

メジャーからのオファーが一つも来ていなかったら、僕が広島に帰ることはなかっただろう

素晴らしいプレーをして、ファンを喜ばせる。これがプロとしての最も大切な仕事だと思う。ジーターのラストゲームは、まさにヤンキースファンをわくわくさせる最高のものだった。

じゃあ、自分が引退する時に、プロとして最も貢献できるチームはどこなのか。そんなことを僕も考え続けていた。

ありがたいことに、僕のメジャー移籍後も日本からわざわざ足を運んでくれるカープファンはいて、ずっと「戻ってきてほしい」という声援を送り続けてくれていた。そして球団本部長の鈴木さんは僕のメジャー移籍後も毎年連絡をくださり、契約更新のたびに声をかけてくれていた。

僕が入団してプロ生活をスタートさせた時点で、カープは優勝に届かない状態が続いていた。当時はファンも今ほどは多くなかった。ただ、負けても負けても応援に来てくれる古くからの熱烈なファンの姿が、僕の原動力だった。

あの人たちに「あぁ、カープファンを続けていて良かったな」と思ってもらいたい。メジャーで結果を残して必要とされているなかでカープに戻るからこそ、価値があるんじゃないかとも思った。

実はもともと、2007年12月に広島カープを離れる選択をして以来、はっきりと決めていたことがあった。

「しっかりと戦力として貢献できない状態であれば、日本には帰らない」

「メジャーリーグで駄目になったら、広島には帰らずそのまま引退する」

もし2014年のシーズンオフ、メジャーからのオファーが一つも来ていなかったら、僕が広島に帰ることはなかっただろう。

ヤンキースファンは、ヤンキースを応援するために球場に来ているのではない。チームが勝つ姿を見るために足を運んでいる

僕が日本球界への復帰を決めた時、ニューヨークメディアやヤンキースファンから惜しむ声をいただいていたことを実は後から知った。英語が決して得意ではなかったし、決断がぶれてしまわないよう、極力周りの意見は耳に入れないようにしていたからだ。

カープ復帰を決めた後にニューヨークのファンに挨拶できる機会が無かったが、後に聞いてやっぱり本当にうれしかったし、僕を受け入れてくれたニューヨークという土地と人々に、この場を借りて改めて感謝を申し上げたい。

思い返すと、やっぱりヤンキースは、名門ゆえにファンの存在も他球団とはひと味もふた味も違うものがあった。ヤンキースファンは、ヤンキースを応援するために球場に来ているのではない。チームが勝つ姿を見るために足を運んでいるのだ。つまり、求められるのは「常勝ヤンキース」。活躍した選手に絶大な賛辞が贈られる反面、勝利に貢献できなければ、容赦なく厳しい言葉が浴びせられる。

入団して1年経ったころには、自宅マンションもファンにばれていた。不動産系のウェブサイトに、僕の写真入りで紹介されているのを見たことがある。何階の何号室か、家賃、間取りまで、全部正しかった。今となっては完全に笑い話だけど、絶対に逃げられない環境なのだと当時は思い知らされたものだ。

メディアも同様だ。初めは恐ろしさの方が勝っていた。日本と違って記者がロッカールームまで入ってくるので、打たれた試合でも取材から逃れることはできない。その扉が開いた瞬間、舌なめずりしながら僕に向かってくる記者たちの姿は恐怖だった。

ただ、そうした重圧があったからこそ、僕はヤンキースという偉大な球団で3年間ローテーションを大きく崩すことなく回し切れたんだと思う。入団当初ですでに36歳。肉体的にはギリギリで、かなりきつかったけれど、その分、充実感はとても大きかった。

最初にメジャー挑戦を決めた時は、まさか自分がヤンキースでプレーする日が来るとは思っていなかった。そしてヤンキースには歴代、レジェンドと呼ばれるスーパースターがたくさんいる。そんな広い世界の中で、自分の存在がいかに小さいかを知った。そして逆に、そんな自分でもカープという球団では多少なりとも良い影響力を発揮できるんだとすれば、それはとても幸せなことだと感じた。

だから次に進む以上、常に不安はつきまとっていたけれど、選んだ道が「正解」になるよう、ただひたすら努力し続けた。僕は不器用で、一度決めたことをぶれずに貫くことでしか自分を表現できなかった。それを支えてくれる仲間がいて、応援してくれるファンがいた。こんな僕に居場所を与え、野球人として成長する機会をくれた3つの球団とその土地の人々に、改めて心から感謝を言いたい。

ジーターが打ってくれたからこそ、僕の1勝が消えたことにも価値があったんだな

最後に、僕のメジャーリーグ通算成績を振り返っておこう。7シーズンで79勝79敗。一つも勝ち越せず、でも一つも負け越すこともなく終わった。山あり谷ありの野球人生、それがなんとも自分らしい。

実は、ジーターの本拠地ラストゲーム、僕は8回に降板した時点で勝利投手の権利を得ていた。9回に追いつかれたことで僕の権利が消滅してしまったのだけれど、追いつかれたからこそ主役による劇的逆転打が生まれたとも言える。

結果的に、あのジーターの“引退試合”が、僕にとってのメジャー最後の試合にもなった。

ジーターには、「僕の勝ち星と引き換えに、あなたの野球人生最後のサヨナラヒットが生まれたんだよ」とジョークを交えて言ってやりたい(笑)。いや、違うか。ジーターが打ってくれたからこそ、僕のメジャー最後の1勝が消えたことにも価値があったんだな。

80勝79敗ではなく、79勝79敗。

アメリカという地で刻んだこの成績を、僕は改めて誇りに思う。

(※引用元 THE PLAYERS’ TRIBUNE

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