長く厳しい“コロナ禍”が明け、街がかつてのにぎわいを取り戻した2023年。侍ジャパンのWBC制覇に胸を高鳴らせつつ、世界が新たな“戦争の時代”に突入したことを実感せざるを得ない一年だった。そんな今年も、数多くの著名人がこの世を去っている。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」では、旅立った方々が歩んだ人生の悲喜こもごもを余すことなく描いてきた。その波乱に満ちた歩みを振り返ることで、故人をしのびたい。
精密機械――広島カープ史上初めて200勝投手となった北別府学についた異名は、もちろんそのコントロールの良さに起因する。
「勉強のためブルペンで見させてもらってましたけど、ペイさんは、ほんと1センチ、1ミリの世界で投げる投手。なにしろキャッチャーミットが動かないのですから」
と語るのは、広島の元投手で北別府の3年後輩だった金石昭人氏(62)。チームメイトには“北”の中国語読みで“ペイ”と呼ばれていたそうである。
「特に横滑りするスライダー。本当に少ししか曲がらないのだけど、それでバットの芯を外すんです」
1957年、北別府は鹿児島の酪農家に生まれる。その制球力は中学から話題だったが、寮制の県内強豪校には進まず、手に職をつけるべく、また家業の手伝いを続けるべく、自転車で通える宮崎県の都城農業高校に越境入学した。もっとも、自転車通学といっても片道20キロの山道。それが自然と下半身強化のトレーニングになっていたという。
甲子園には出場できなかったが、地区大会で完全試合を達成したことなどで注目され、75年ドラフト1位で広島に入団。78年に10勝、以後11年連続で2桁勝利を挙げる。79年に17勝で日本一に貢献。82年には20勝を挙げ最多勝と沢村賞、86年には18勝で最多勝、沢村賞に加え、最優秀防御率、リーグMVPを受賞した。
投手陣の大黒柱
「この年、僕は防御率2位。一つくらいタイトルを譲ってくれないかなと思っていたんですけど……。後輩にも絶対に負けないという負けん気の強い先輩でした」
と金石氏。
「球審に対しても、自信を持って投げた球をボールと判定されると“何でだ!”とけんかするような人でした。球審も判定変えませんよね。それでペイさんは、次もあえて同じところに投げる。球審がストライクと言うまで同じところに投げ続ける。それだけのコントロールを持っていた投手でした」
広島黄金時代、押しも押されもせぬ“投手陣の大黒柱”だった。もっとも、“野手陣の大黒柱”だった内野手の高橋慶彦氏(66)とは犬猿の仲だったそうで、
「慶彦はね、北別府が投げているときにわざとエラーするんですよ。もちろん大事な場面ではしませんよ。どうでもいいところでエラーをするんです」
と明かすのは元広島捕手の水沼四郎氏(76)。打たせて取るタイプの投手にとってはたまったものではない。
後輩たちが喪章をつけて戦った
投打の双璧はプライベートでも張り合っていた。高橋がポルシェに乗れば、北別府がリンカーン・コンチネンタルで対抗、という話は有名である。
「高橋さんが乗っていたのと同じ車をペイさんが買ったのを知って、高橋さんが即刻買い換えた、ということもありました」(金石氏)
そんな“不仲伝説”を、とりわけ高橋氏はユーチューブ上で披露しているが、
「既にわだかまりは消えたらしく、慶彦さんの『元気になったら出て』というオファーに北別府さんが『出ますよ』と応じていたそうです」(スポーツ紙記者)
2020年1月、成人T細胞白血病を患っていることを公表し、末梢血幹細胞移植手術を受けた。昨年6月には敗血症にかかったことを妻の広美さんが明かすなど、病と闘う晩年だった。
現役時代は先輩投手として、引退後は投手コーチとして彼と接してきた外木場義郎氏(78)によると、
「北別府が病気してからは会うことはありませんでしたが、彼も私も広島ホームテレビに出演していたので、病状は局の知人から聞いていました。訃報も局の方から電話で知らされました」
6月16日昼過ぎ、広島市内の病院で死去。享年65。
同夜、マツダスタジアムで行われた西武戦では、後輩たちが喪章をつけて戦った。そして、2-0の完封勝利を、永い眠りについた“精密機械”に捧げた。
(※引用元 デイリー新潮)