野武士のようなたたずまいで
史上唯一の三冠王を3度獲得した落合博満も認めた天才打者がいた。元広島の前田智徳だ。
熊本工高で甲子園に3度出場し、その打撃センスが注目される。地元球団のダイエー(現ソフトバンク)の評価が高いとされていたが、ドラフト4位で広島に入団する。その天才的な打撃技術は高校生の次元を超えていた。高卒1年目の1990年に56試合出場すると、翌91年に開幕スタメンを飾った4月6日のヤクルト戦(広島)で内藤尚行から右中間に先頭打者本塁打。プロ野球の歴史でプロ初アーチをシーズン開幕戦の初回先頭打者本塁打で記録したのは前田のみだ。主に二番を務め、129試合出場で打率.271、4本塁打、25打点、14盗塁、30犠打でリーグ優勝に貢献。外野手では史上最年少でゴールデン・グラブ賞を受賞する。
92年から3年連続打率3割をマークし、球界を代表する打者に。4年連続ゴールデン・グラブ賞と攻守走3拍子そろった選手として進化を続けていたが、95年に野球人生の大きな試練に襲われる。5月23日のヤクルト戦(神宮)で二ゴロを打った際、一塁への走塁時に右アキレス腱を断裂。選手生命の危機に陥る大ケガでその後のプレーにも影響を及ぼすようになった。
96年以降は足の故障で離脱する時が目立つようになる。万全のコンディションで試合に臨めた日は少ない。前田のすごさはこのような状況であるにもかかわらず、96年から99年まで4年連続で打率3割以上、得点圏打率.340以上と安打を打ち続けていることだった。「打撃の求道者」とメディアで評されるようになったのもこの時期からだった。自分の納得いく打球でなければ、本塁打でも無表情でダイヤモンドを一周する。野武士のようなたたずまいで、どんな球もヒットゾーンに飛ばす姿は他の選手と異質だった。現役時代に対戦した落合博満が打撃指導の際、「前田は理想の打撃フォーム」と絶賛していた。
2000年にシーズン途中で左アキレス腱の状態が悪化し、7月に腱鞘滑膜切除手術を受ける。79試合出場にとどまり、翌01年も27試合出場のみ。だが、何度も立ち上がる。02年に打率.308、20本塁打でカムバック賞を受賞。05年は12年ぶりの全146試合先発出場で打率.319、32本塁打、87打点で自己最多の172安打を放った。
ケガを抱えながら2000安打に到達
07年9月1日の中日戦(広島市民)で8回二死満塁から右前に2点適時打を放ち、プロ通算2000安打を達成。一塁上で笑顔を浮かべ、長男と二男から花輪を受け取った。お立ち台で、「ケガをして、チームの足を引っ張って……。こんな選手を応援して下さって、ありがとうございます」と声を詰まらせ、「最高の形で(自分に打順を)回してくれたので、ここで打たなきゃと思った。今日という日は一生忘れないと思います」と語った。
08年以降は代打の切り札として活躍。13年限りで24年間のプロ野球人生に終止符を打つ。マツダスタジアムで行われた引退セレモニーで、「故障だらけの野球人生でしたが、球団オーナーをはじめ、監督さん、スタッフの皆さん、裏方の皆さんに手助けして頂いて励ましていただき、支えられながらここまで乗り切ることができました。広島東洋カープで一途に野球ができたことを誇りに思います」と挨拶。「今日まで応援してくれたファンの皆さん、今日まで支えてくれた全ての方に感謝いたします」と声を張り上げると、超満員のファンから万雷の拍手と「前田コール」が起きた。
打撃タイトルは獲得していないが、通算2188試合出場、打率.302、295本塁打、1112打点。安打は2119本を積み上げた。記録にも記憶にも残る天才打者だった。(写真=BBM)
(※引用元 週刊ベースボール)