広島が2年連続8度目の優勝を甲子園で飾った。1979、1980年の古葉カープ以来、37年ぶりの連覇である。
台風18号の影響で地元優勝の機会が流れたが、半分が真っ赤に染まった甲子園で11度宙に待った緒方監督は、「この甲子園は、自分のプロ野球選手としての第一歩目のグラウンド。その思い出の詰まった甲子園で、こうして胴上げをしてもらって、本当に心から嬉しい」と感涙した。
そして「うちの選手はあきらめない。去年25年ぶり優勝の経験を自信と力に変えた。ケガ人も出て苦しいときもあったが、若手が活躍してチームに勢いをもたらし底上げした」と続けた。
今季の広島は84勝中41勝が逆転勝利。“逆転のカープ”と他球団に恐れられた。
田中、菊池、丸の1、2、3番と、センターラインが固定され、チーム打率.274、得点706、本塁打147、そして盗塁108さえ、すべてがリーグトップ。
4番の鈴木誠也が8月末に骨折で離脱しても、代役の松山が見事に4番を務め、打ち勝ったことは確かだが、“逆転のカープ”を演出した背景には、救援防御率2.75と、これまたリーグトップにあるブルペン陣を含めた投手陣の踏ん張りがある。
「若く、経験の少ない投手陣がシーズンを通して成長できるかに自分の気持ちが行っていた。ジョンソンが離脱する中で、岡田、九里、薮田らの若い力がどんどん出てきて、彼らを中継ぎ陣が助けた」と、優勝会見で緒方監督も言及していた。
昨年25年ぶりにリーグ優勝したカープで、黒田博樹氏は24試合に先発、150回と3分の2を投げて10勝8敗の成績を残した。そして何よりチームの精神支柱であった。その穴をどう埋めるかが、連覇の大きな課題だった。
だが結果的に、黒田チルドレンといわれる、黒田氏の薫陶を受けた若手が、その穴を埋めた。
昨年、先発はわずか1試合で、3勝1敗だった4年目の大瀬良が、先発に転向して22試合に投げて防御率3.63の9勝2敗。昨年は3試合に先発して3勝1敗だった薮田が、序盤は中継ぎで3勝、交流戦からは先発で11勝と37試合にフル回転して勝ち頭となった。MVP候補としても名前が挙がる。
またルーキーイヤーに15試合に先発、4勝3敗だった2年目の岡田は、23試合に先発、12勝5敗、防御率3.63と大きく飛躍した。大瀬良と同期の九里も、中継ぎ、先発と32試合にフル回転して9勝5敗をマークした。
彼らは、ブルペンで黒田氏の背中を見て学び、ときには直接アドバイスをもらっていた。昨年限りに引退した黒田氏の黒田遺産である。
学んだのは準備の大切さである。
データを綿密に調べること。黒田氏は、よくメモをとった。若手も、その姿勢を見ていた。スコアラーが出すデータだけでなく、直接対決して感じた相手バッターの傾向をメモに残して研究するという習慣が生まれた。そして黒田氏が、口をすっぱく言ったのが配球の基本だ。
「ファーストストライクからストライクゾーンの隅を狙うな」
黒田氏はマウンドで失敗を恐れて小さくなり自滅する若手に執拗にこう呼びかけた。
「ファーストストライクは大胆にとれ。内外のコースを狙うのは、カウントが整ってからだ」
そして世界でも有数のツーシームの使い手である黒田氏は、ボールを動かすことによって有効になる内角球の使い方も身をもって教えた。
黒田チルドレンのほとんどが、ツーシーム、或いは内角球を積極的に配球に組み込む。「逃げない」ピッチングである。投球の幅が広がると同時に勝つピッチングに変わった。結果が出ると、それがさらなる自信につながった。
昨年、沢村賞を争い、本来ならローテーションの軸となるべきジョンソンが故障などもあり6勝と不振、16勝した野村も9勝止まりだが、黒田イズムの薫陶を受けた若手たちが、黒田の穴を埋めるだけでなく、野村、ジョンソンの“落ちた分”までカバーした。
ブルペン陣には、競争意識があった。
ストッパーの中崎が開幕直後に腰を痛めて離脱したことで、やりくりを余儀なくされたベンチは調子のいいピッチャーから使うことになる。そこで抜擢を受けた今村が、かつての輝きを取り戻す。
中崎が復帰しても、今村はしばらく抑えのポジションをキープしていた。彼らもまた黒田氏に「競争意識を持て!」と言われ続けていた。
昨年の日本シリーズ。第7戦に先発予定だった黒田は、結果的に最後のマウンドに立つことはできずにユニホームを脱ぐことになった。
その際、「来年は、ぜひ連覇して日本一になってほしい」とメッセージを残した。そのメッセージは若手に“黒田遺産”となって息づき、連覇につながったのである。次は、黒田氏が果たせなかった日本一の夢を果たす番である。(文責・駒沢悟/スポーツライター)
(※引用元 THE PAGE)