エースで四番として、2009年夏の甲子園で中京大中京高(愛知)を頂点に導いた。日本文理(新潟)との決勝では打者として先制2ランを含む3安打4打点。
しかし投手としてはピンチを招き、1試合で2度の降板があっただけに、優勝インタビューでは帽子で顔を隠して「本当に最後は苦しくて……情けなくて。ホントすみませんでした」と泣きながらナインに謝罪したのが印象的だった。
甲子園で脚光を浴び、ドラフト2位で10年に内野手として広島に入団した。3年目に開幕スタメンを勝ち取り、一軍デビュー。その年チーム最多の14本塁打をマークするなど、プレークを遂げた。
だが15年ごろから出場機会は減少し、19年には一軍デビュー後最少の28試合の出場にとどまった。
背水の覚悟で挑んだ20年は「七番・一塁」で6年ぶりに開幕スタメンを奪取。三塁のレギュラーに定着し、8年ぶりに規定打席に到達した。打率.279、14本塁打、58打点を記録。キャリアハイのシーズンとなった。
しかし好調は続かなかった。今季は2年連続で開幕スタメン出場を果たしたが、打率が伸び悩み、次第にベンチスタートの試合が増加していった。打率は1割台後半に停滞し、6月21日には出場選手登録を抹消された。
二軍戦では序盤こそ苦しんだものの、ジワジワと調子を上げていき、8月17日時点で30試合に出場し、打率.277、4本塁打、12打点と復調の気配をみせている。
12年前の夏の甲子園を沸かせたスターが、夏場に本領を発揮し、チームを助ける日もそう遠くはなさそうだ。
(※引用元 週刊ベースボール)