広島東洋カープは、現在の日本プロ野球において、ただ1チーム「親会社」を持たない球団として、「12球団唯一の市民球団」と呼ばれている。しかし、現在カープの株式を持っている市民は一人もおらず、実態は松田(マツダ)オーナー家の私有球団だ。それにもかかわらず、会社名を球団名に冠さない理由とは……。
コルク生産からはじまった東洋工業
1955年、広島カープの運営会社「広島野球倶楽部」は累積の負債が5635万円に達した。
このままでは立ち行かなくなるのは必至だった。
東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次(つねじ、1895~1970)から、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させ、新会社を設立することが提案された。その新会社に地元財界が出資するのである。
現在のマツダは自動車メーカーだが、東洋工業株式会社はコルク生産から始まった。
創業者は松田重次郎(じゅうじろう、1875~1952)という。広島県安芸郡仁保島村向洋(にほしまむらむかいなだ、現・広島市南区向洋)に、12人きょうだいの末っ子として生まれた。正規の学校に通えず、13歳で大阪へ出て、住み込みで鍛冶屋で働いた。そこで機械工業の魅力を知り、「機械工業こそ自分の本業」「より高度な技術を習得したい」と思うようになり、大阪・天満橋筋に鉄工所を開き、そこを拠点に造船技術者として呉や佐世保の造船所や砲兵工廠などさまざまな工場を渡り歩いた。この頃に長男・恒次が生まれている。
1906年、31歳のとき、松田は10坪ほどの牛小屋を借りて、「松田製作所」を創業した。
既存の商品を研究して改良した「専売特許松田式ポンプ」を世に出して、軌道に載せた。工場には高性能な海外製製造機械を積極的に導入し、ものづくりにこだわった。
1918年、松田は広島に帰り、「広島松田製作所」を設立した。すぐに広島の財界人から注目されるようになり、1920年に経営不振に陥っていた「東洋コルク工業株式会社」の社長に推された。東洋コルク工業は1890年創業の清谷商会が前身で、コルクの製造・販売会社である。経営が悪化したため、広島貯蓄銀行が中心となり再建策として、それまでの個人経営から会社組織に改めることになり、県の主要企業が出資して設立された。初代社長には広島貯蓄銀行頭取の海塚新八(かいづかしんぱち)が互選されて就任したが、体調不良で辞任したため、取締役になっていた松田が推されて就任したのだ。
松田の本業は機械工業だが、新分野に積極的に取り組んだ。圧搾コルク板の製造に成功し、廃材から断熱材や緩衝材として使えるコルクを製造することに成功し、海軍から大量に受注して、再建に成功した。事業拡大を目指して東京へ進出したが、1923年の関東大震災で売掛金が回収不能となる。かねて親交のあった日窒(にっちつ)コンツェルン(現・チッソ)総帥の野口遵(したがう)に融資してもらい、従業員の半分を解雇して切り抜けた。だが25年12月に火災でコルク工場が全焼し、死者まで出してしまう。これを機に機械工業に原点回帰することにし、27年に社名を「東洋工業株式会社」と改めた。
三輪トラック製造で飛躍、戦後はトラック製造に専念
東洋工業が飛躍するのは三輪トラックを製造するようになってからだ。安価な輸送手段が求められていると感じ、四輪自動車よりも安くできる三輪トラックを選んだのだ。松田は他の自動車メーカーがエンジンなどを海外からの輸入に頼るなか、部品も自社開発することにこだわった。1930年に三輪トラックを試作し、「マツダ号」「MAZDA」と名付け量産した。同年9月には塩田で知られる広島県安芸郡府中町に新工場を建設し本社も移転した。
1938年、東洋工業は「軍需工業動員法」により陸海軍共同管理工場となった。陸軍から九九式短小銃の生産を請け負い、呉海軍工廠からは爆弾・水雷・信管などの製造命令を受けた。一方、軍事体制下、民生品の生産は制限され、1943年には三輪トラックは生産できなくなった。東洋工業は戦時金融金庫が大株主となり、経営面でも軍の意向が反映されるようになる。44年1月、兵器増産を目的とした軍需会社法による軍需工場の指定を受け、軍の管理下に置かれた。一方で、日窒コンツェルン総帥の野口遵が亡くなり、日窒から出ていた役員が引き上げ、提携関係が終わった。コルク製造部門は、内山コルク工業と共同出資して設立した東洋コルクに分離した。43年末時点で、東洋工業は約8500名の従業員を擁する国内最大級の軍需会社となっていた。
1945年8月6日、広島に原爆が投下された。東洋工業の府中工場は爆心地から5キロのところにあったが、大きな損害はなく、敷地内の土地・建物を提供し、広島県庁舎やNHKが避難して業務を遂行するほどだった。しかし、松田は次男を失くし、従業員も119名が死亡、335名が負傷した。
敗戦から4か月後の1945年12月、東洋工業は三輪トラックの生産を再開した。松田は軍需工場経営者だったが、資本金が3000万円だったので、公職追放を免れた(資本金1億円以上の企業経営者のみが対象となった)。戦後は軍需品の生産を中止し、民生用トラックの製造に専念した。49年から輸出も再開し、50年4月に三輪乗用車、6月に1トン積み小型四輪トラックと、次々と新型車を生産していく。49年のカープ結成時には、もちろん東洋工業も出資した。
赤字会社を解散、新会社として「株式会社広島カープ」を設立
1951年、松田重次郎は会長に退き、長男・松田恒次(1895~1970)が社長となった。
恒次が生まれたのは父がまだ大阪で鉄工所を営んでいたときだ。機械好きな子で、大阪市立工業学校に入学し野球部で活躍した。卒業すると陸軍宇治火薬製造所に就職したが、27年に父が経営する東洋コルク工業に入社し、工務係から始めた。
カープが誕生した1949年、東洋工業は事業拡大期に入っていた。資金的に余裕もあり、二代目の恒次が野球好きだったので、カープへの関わりを深めていった。1962年11月に松田恒次は広島カープの球団社長に就任し、ますます関係を深める。
12月17日、広島野球倶楽部は臨時株主総会を開き、「発展的解消」を決議した。19日、「株式会社広島カープ」が発足した。資本金は500万円で、県下の東洋工業・広島電鉄・中国新聞社など13社が出資した。
厳密には「広島野球倶楽部」が解散しているので、選手は全員自由になり、どの球団に移ってもいいとの解釈も成り立つ。さらに新会社の「株式会社広島カープ」がセ・リーグに加盟するのであれば、加盟料が必要だとの声が両リーグ理事会で上がった。しかし、鈴木龍二セ・リーグ会長は事前に相談されていたので、「会社の名称変更」として選手はカープにそのまま所属し、加盟料は不要ということで押し切った。
カープの財政は、1958年に市民球場が完成し、収容人数が大幅に増えたので入場料収入が増加し、改善されていく。
税制上、やむなく「広島東洋カープ」に改名
1967年のオフ、12月17日に「広島カープ」が「広島東洋カープ」と改名した。カープは市民球団として親会社を持っていなかったが、東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となったのを受けて、1967年12月に「広島東洋カープ」と改称したのだ。しかし東洋工業が親会社になったわけではなく、体裁上は市民球団の形を維持し、ネーミングライツ的に「東洋」をチーム名としたのである。
1967年、カープは63年以来の最下位に転落した。それもあってシーズンオフの10月に全役員が松田社長に辞表を提出し、以後は東洋工業のみで球団を運営することが決まった。松田恒次が筆頭株主となり、球団会社は松田家と東洋工業が出資する体制へと移行したのである。現在もマツダはカープの大株主ではあるが、松田家の持ち分のほうが多い。東洋工業はチーム名に社名を入れる意思はなかったのだが、球団へ資金を回す際に税制上の経費として認めてもらうには、社名を入れるよう税務当局から指導された。つまりカープが東洋工業の宣伝媒体になっていると認められなければ、税制上の優遇措置が得られないのである。そこでやむなく、球団名を「広島東洋カープ」とした。
社名は「東洋工業」だが、同社の自動車はブランドの「マツダ」として通用しており、宣伝効果を狙うなら、「広島マツダカープ」とすべきだ。しかしそれだとマツダ(自動車)の球団というイメージとなり、これまで市民球団として親しまれ、県内各企業からの支援も得ていたこととの整合性がとれなくなる。そこで一般名詞でもある「東洋」を冠した「広島東洋カープ」としたのである。
同時に球団の運営会社名も68年シーズンから「広島東洋カープ」となる。松田恒次が球団オーナーとなり、その長男で東洋工業副社長の松田耕平(1922~2002)がオーナー代理に就任した。
1968年は東洋工業にとって、前年に発売されたロータリーエンジン搭載車が脚光を浴び、生産台数でトヨタ、日産についで国内第三位となった飛躍の年だった。しかし、アメリカ・フォードとの提携交渉のさなかの70年に松田恒次が亡くなり、ドル・ショックで提携は白紙となった。松田耕平は拡大路線を取り、新工場を建設、開発にも投資した。だが73年の石油ショックでロータリーエンジンは燃費が悪いとされ、販売台数が落ち込み、一気に経営危機となり、74年には173億円の赤字となった。
そして1975年、東洋工業が苦境にあるなか、広島東洋カープは初優勝した。
松田家による独立採算制に
一方、東洋工業は住友銀行の管理下に置かれるようになり、松田耕平は1977年に社長を退任し、代表権のない取締役会長に退いた。これにより、東洋工業は松田家の同族経営が終わる。経営改革のなかで広島東洋カープをどうするかも協議され、資本関係は維持して株主ではあり続けるが、球団経営には関与しないこととなり、広島東洋カープは松田家による独立採算制となった。
東洋工業の経営危機のとき、カープが最下位争いを続ける弱小球団だったら身売りされていたかもしれない。
東洋工業は1984年に「株式会社マツダ」と社名変更した。80年代半ばから広告会社主導の「CI(コーポレート・アイデンティティ)」という企業イメージ戦略が流行し、多くの大企業が社名変更していたが、東洋工業も時流に乗って、ブランド名として世界的にも定着していた「マツダ」を社名にしたのである。だが、球団名は「広島東洋カープ」のまま、現在に至っている
(※引用元 文春オンライン)