新球場「エスコンフィールド北海道」が位置する北広島市とは
文春野球は、今年で現在の形の「ペナントレース」を終えるのだという。ということは、私が交流戦に登板するのも最後になるかもしれないということだ。対戦相手を聞き、カープにまつわる話が何かできないか考えた。最初に頭に浮かんだのは、お立ち台で広島弁と北海道弁の“ちゃんぽん”を駆使したあの男だったが、それは後にして。
ファイターズの新本拠地「エスコンフィールド北海道」の所在地は、北海道北広島市だ。地名は明治時代に大地を開墾した際、広島出身者が入植したことに端を発する。割と最近まで「広島町」を名乗っており、北広島市になったのは1996年のことだ。新球場の最寄りになっているJRの「北広島駅」は、町名が広島だった頃から変わっていない。これは大ターミナルの広島駅と混同されると、業務に支障があるためだろう。
先祖が生きた広島とのつながりを強固に保ち、町は成長してきた。カープ応援団があり、少年野球のチームもカープを名乗っているのはそのためだ。日本ハムの北海道移転後は市内にファイターズを名乗る少年チームも生まれ、いわば日常的にファイターズとカープが“縄張り争い”を続けてきた場所だ。
そしてファイターズにはずっと、広島の香りがどこかにあった。1981年の優勝を支えた江夏豊は、エース高橋直樹との大トレードでカープからやってきた。同じく移籍組からは長身の金石昭人や長冨浩志が、東京ドーム時代のチームを救ってくれた。そして近年は、名門・広陵高出身者が途切れず所属している。
子どもの頃好きだったプロ野球選手を問うと「広島東洋カープの全員」と言ってはばからない男がいた。現在2軍コーチを務める稲田直人だ。レギュラーを奪った時期は短いが、やたらと存在感のある選手だった。しぶとい守備や打撃ももちろん、ベンチからの大声すら戦力。ただ社会人経由の入団にもかかわらず、2004年から2年間、1軍昇格はなかった。
やっと1軍に上がった2006年の6月、すでに広島でのカープ戦は終わった後だった。だから翌2007年、かつて応援に通い詰めた旧・広島市民球場に、プロのユニホームを着て足を踏み入れた時は言葉にしがたい感慨を抱いたのだという。外野スタンドには「ヒルマン監督、稲田を使ってください」という横断幕が揺れた。「何、あれ?」と聞きに行くと、少年時代のチームメートが広げていたのだと照れながら教えてくれた。
そして球場のラストイヤーとなった2008年、“奇跡”が起きる。この年の稲田は春先に骨折し、出番が減っていた。それが6月17日の広島戦、故郷でスタメン起用されると2本の適時打を放った。勝利投手のダルビッシュを差し置いて、ヒーローインタビューに呼ばれたのだ。さすがに札幌での決めゼリフだった「なまら最高じゃけんのう」とは言わなかったと記憶する。どこか神妙に、うれしさを語っていた。
広島経由でプロに羽ばたいた吉川光夫「本当に感謝しています」
野球選手として広島に「育ててもらった」と言う男もいた。2012年のリーグ優勝に貢献した吉川光夫投手は福岡出身。進んだ広陵高で甲子園出場を叶えることはできなかった。3年夏は本命中の本命だったが、準決勝で制球を乱し敗れた。押し出しを連発する姿を見て、評価を下げたプロ球団もあると聞く。
ところが、日本ハムの見方は違った。当時の高田繁GMと、山田正雄スカウトディレクターは、この準決勝を見ていなかったのだ。足を運んだのは、目の覚めるようなピッチングで完封劇を演じた別の試合。吉川が花開いた後に山田氏に聞くと、愉快そうに笑った。
「今は選手を隠すなんて無理な時代。ネットだ雑誌だって、全部出ちゃうんだから。でも選手の良い時を、自分だけが見ているというのはあり得るんだよ」
ドラフト1位で日本ハムに入団すると、1年目の2007年から1軍で投げた。6月20日には、苦い思いで高校野球を終えた旧・広島市民球場でも先発した。ところが4回途中まで、無失点のままで降板させられる。四球を連発する姿に、当時のヒルマン監督が「音を上げた」のだった。球場の取材エリアは、左翼スタンドの裏にあるバス乗り場の前だった。カープファンの騒ぎが聞こえてくる中で吉川は、「いつかここで勝てるようにしたい」とはっきり言った。
その後、吉川には制球難のレッテルが重くのしかかった。特に2009年からの3年間は0勝11敗。2軍が主戦場となり、広島で投げる機会もなかった。リベンジの機会が訪れるのは、14勝を挙げてリーグMVPに輝いた翌年、2013年5月29日のことだ。球場は現在のマツダスタジアムに変わっていたが、7回1失点、10奪三振の快投。さらにプロ初安打まで放った。広陵高の恩師・中井哲之監督もスタンドを訪れていたという。
「監督は練習が終わってからしか球場に来られない。だからマウンドにずっといられてよかったです。こういうふうに育ててもらえたのは、本当に感謝しています」。巨人と西武を経て、今も独立リーグの栃木で兼任コーチとして投げ続ける。ベースにあるのは広島での日々だ。
その後は有原航平投手(現ソフトバンク)が広陵高出身者の流れを継ぎ、今も上原健太投手が在籍する。さらに広島へのこだわりを守ってきた北広島市は、今やファイターズ“ど真ん中”の街となった。これから、どんな変化が起こるのだろうか。この原稿が掲載されるのは、実際にファイターズがカープとの3連戦を戦う最中になる。2つの土地をつないできた野球にも、思いをはせてみたい。
(※引用元 文春オンライン)