広島・森下暢仁投手(25)が明大の主将だった4年前、そのエースとしての姿を誰よりも近くで見ていた投手がいる。彼が森下先輩から何を学び、自身の成長にどのようにつなげてきたのか――。それが今回の文春野球コラムのテーマになるはずだった。しかし、1問目の質問で、その計画はあっさりと崩れた。
「森下さんから学んだことですか?ないです(笑)。あの人は天才ですから」
そう答えたのは、三菱重工Westのエース・竹田祐投手(23)である。明大から同社に進んだ最速151キロ右腕。ドラフト解禁年となる社会人2年目を迎え、今秋ドラフト候補として注目を集めている。
明大時代に天才・森下が見せた覇気
なぜ、2年後輩の竹田が大学時代の森下を誰よりも知っているのか。それは、明大の寮の習わしにある。当時の善波達也監督の考えで、エースと同部屋になる選手は、次期エース候補と決まっていた。寝食をともにすることで、エースとしての立ち振る舞いを学ぶ。そして、森下と竹田が同部屋になった。
竹田は、履正社時代に3年春の選抜大会でエースとして準優勝に導いた好投手だ。周りから見れば、竹田も天才のうちの一人に違いない。その竹田が「森下さんは、もちろんいい方でした。ただ、目標にもできないぐらいの天才でもありました」と頭をかく。冗談めかしながらとはいえ、それが偽らざる本心なのだろう。
ただし、その天性の才能だけでトップに上り詰めたわけではないことも知っている。「メンタルのつくり方が上手だったことは凄く覚えています。この試合に勝つと言ったら、絶対に勝って帰ってくる。凄いな……と思いながら見ていました」。
負けん気の強さを象徴する有名な話がある。4年春のリーグ戦初戦で6回4失点と振るわずに敗戦投手となった試合後、森下がナインの前で初めて頭を下げた。「ふがいない投球をして申し訳ない。明日勝って、あさって(の3回戦で)投げさせてくれ」。その試合以降の登板7試合は4勝2セーブと無敗を誇り、リーグ優勝に貢献。天才が見せた覇気を、竹田は今も忘れることはない。
エースへの道のりは険しかった
森下が明大入学直後に同部屋となったのは、当時の4年生エース兼主将で、のちにドラフト1位で中日に進む柳裕也だった。森下の特徴的な大きく曲がるカーブは、柳の投球練習を必死に見て盗んだものだ。「結果を残さないと信頼される投手になれないということを柳さんから教わりました」。竹田が森下の責任感の強さに驚いたように、森下も柳からエースとしての姿勢を学び、実践してきた。
天才と評される森下とはいえ、アマチュア時代の全てのカテゴリーでエースだったわけではない。中学の軟式野球部では正遊撃手だった。背番号が発表されるたびに、「1」ではなく「6」を与えられた。学校ではグッと我慢していた悔しさを自宅で爆発させると、母・美生さんに厳しく叱責されたこともあった。背番号をもらえる感謝を忘れず、エース背番を背負える日を信じて投げ込んだ。
大分商でもエースへの道のりは険しかった。同学年のエース候補は、のちにソフトバンクに進む川瀬晃だった。中学同様に、高校でも入学後しばらくは遊撃手だった。そこから徐々に才能の片鱗を見せ始める。入学当初は最速120キロ程度だった球速は、高3春には140キロを超えた。森下の投手としての潜在能力を確信した渡辺正雄監督は、プロ入りを目指していた川瀬に伝えた。「プロに行きたいなら、投手として森下を超えることはできないよ」。その言葉に投手志望だった川瀬は悔し涙を流し、野手転向を決断した。そして森下に背番号1が与えられた。エースは、ライバルの思いや監督からの期待など全てを背負ってマウンドに立たなければならない。エース背番の重みを、森下はよく知っているのだ。
森下らから学んだエース像とは――。竹田は、少しばかり考えてから答えた。「マウンドという一番高いところに立っている以上、その姿に恥じないようにするのがエースだと思います」。天才ゆえに、投球技術は易々と盗めるものではなかったかもしれない。それでも森下は、主戦投手としてあるべき姿を背中で示した。そして、その思いは後輩にも伝わり、今でもしっかりと受け継がれている。(河合洋介)
(※引用元 文春オンライン)