猛練習でスイッチ転向
昭和の広島黄金時代。山本浩二と衣笠祥雄の“YK砲”が打線の中軸を担い、北別府学や大野豊ら投手陣は“投手王国”と評された。そんなチームを引っ張ったのが機動力だろう。スイッチヒッターの高橋慶彦が斬り込み隊長を務め、“YK砲”が去って高橋が三番に回ると、同じくスイッチヒッターの正田耕三がリードオフマンとなって2年連続で首位打者に。
そんな広島にあって、あるときは二番打者として、またあるときは一番打者としてチームを支えたスイッチヒッターが山崎隆造だった。「地味」「玄人好み」と言われながらも、1983年に与えられた背番号は1番。ほかのチームでは看板選手が背負うことの多い背番号で機動力野球を体現した職人は語る。
「僕自身、地味な仕事に、やりがいを感じていました。そこを評価してもらうのはうれしい」
盗塁王はなかったが、故障でシーズンを棒に振った81年を除いて、80年代すべてでシーズン2ケタ盗塁。一方で盗塁刺が2ケタになったことはなく、その抜群の安定感は機動力野球には不可欠だった。ただ、その81年の故障は選手生命を脅かすほどの重傷で、3月8日、日本ハムとのオープン戦(熊本藤崎台)で左翼の守備中、ファウルを追ってフェンスに激突し、右ヒザの皿を複雑骨折、そのまま熊本市内の病院で手術を受ける。
「もう野球はムリだろうと思いました」
と振り返るが、懸命のリハビリで復活すると、不動のレギュラーとなっていった。
地元の崇徳高を主将として76年にセンバツ初出場初優勝へと導いて、ドラフト1位で77年に広島へ。だが、1年目はファーム暮らしに終始する。そこで古葉竹識監督はスイッチヒッターへの転向を指示。
「当時は右打席に自信がなく、このままではクビだと思い、足を生かすためにも、まったく抵抗なく挑戦しました」
広島の“名物”ともいえる、スイッチ転向への猛練習が始まる。左打席での最初の実戦はアメリカでの教育リーグで、
「左での初打席は外国人が相手だったことを覚えています(笑)」
そんなあるとき、内角球をさばいた打球が右翼線で切れなかった。
「どうやって打てたのかは覚えてないんですが、その感触を呼び起こそうと、ひたすら練習に取り組み、そのおかげで、うまく内角を打てるようになりました」
左打席の好調は、右打席の自信につながる。
「球の見方や投手の攻め方などが分かってきたし、左右の体のバランスもよくなった」
ただ、頭角を現したのは、やはり足。負傷する前には「アイツを代走に使うと必ず生還する」という“神話”もあった。聞こえはいいが、レギュラーでは決して築くことはできない“神話”だ。そして、いよいよレギュラーかと思われた矢先の重傷。ベンチから真っ先に飛び出したのは古葉監督だった。
90年代には選手会長として「津田のために」
82年に復帰したとはいえ、しばらくは痛みが残り、試合が終わると幹部が熱を帯びていることもあった。それでも、ためらうことなく、果敢な走塁を続けていく。翌83年に初めて規定打席に到達し、打率3割もクリアすると、続く84年からは6年連続で全試合に出場、84年に自己最多の39盗塁、二番よりも一番が多かった85年には自己最高、リーグ4位の打率.328をマークして、2年連続でベストナイン、ダイヤモンド・グラブのダブル受賞。87年からも2年連続でゴールデン・グラブに選ばれている。
90年代に入ると全試合出場は途切れたが、91年にはクリーンアップも担ってリーグ優勝に貢献。“炎のストッパー”津田恒実が病気のため離脱したシーズンだったが、優勝は絶望的と言われた夏場には、選手会長として、
「津田のために、みんなで頑張ろう」
とナインを鼓舞した。93年限りで現役引退。通算盗塁228に対し、盗塁刺は65で、通算盗塁成功率.778。“広島機動力野球の申し子”であることを証明する数字だ。(写真=BBM)
(※引用元 週刊ベースボール)