アスリートの「覚醒の時」──。
それはアスリート本人でも明確には認識できないものかもしれない。
ただ、その選手に注目し、取材してきた者だからこそ「この時、持っている才能が大きく花開いた」と言える試合や場面に遭遇することがある。
東京五輪での活躍が期待されるアスリートたちにとって、そのタイミングは果たしていつだったのか……。筆者が思う「その時」を紹介していく──。
いまや広島のみならず、侍ジャパンの主砲にまで成長した鈴木誠也は挫折するたびに強くなってきた。
初めて規定打席に到達した4年目の2016年は、春季キャンプで右ハムストリング筋挫傷による離脱があった。また、「神ってる」と言われた3戦連続決勝弾の前は、2試合連続スタメン落ちを味わっている。
なにより主砲となった今でも、チーム屈指の練習量をこなすきっかけは、1年目にプロのレベルの高さを痛感したからだ。
球団として14年ぶりの高卒新人野手の一軍出場も「7打数1安打」という結果に終わり、「もっとできたはず」と発奮材料にした。常に危機感を持ち続け、挫折を糧にできる精神力がいまなお成長し続けられる要因だろう。
だから、「鈴木誠也の覚醒の瞬間は?」と聞かれても難しい。先述したような挫折を機に覚醒し続け、今もまだ完成形は見えていない。
そのなかで大きな分岐点となった試合を挙げるとすると、プロ2年目(2014年)のクライマックス・シリーズ(CS)ファーストステージの阪神戦だろう。
第1戦は、エース・前田健太(現・ツインズ)が福留孝介のソロ一発に抑える好投も報われず、0−1で敗れた。
そして、シーズン3位の広島にとっては引き分け以下でCS敗退となる第2戦。阪神先発の左腕・能見篤史に対し、野村謙二郎監督(当時)は、20歳の鈴木を「7番・ライト」で先発起用した。
この年、レギュラーシーズンはおもに代打として36試合に出場した鈴木だったが、先発はわずか9試合。そんな鈴木が初めてのCSでスタメン出場の大抜擢を果たした。
2打席凡退で迎えた第3打席は、0−0の7回一死満塁の場面だった。勝負を分ける局面、鈴木自身「代打が送られるかもしれない」と覚悟した。だが、その年限りで退任が決まっていた野村監督は動かなかった。
まだ有望な若手のひとりに過ぎなかった鈴木だが、将来、広島の主軸になる──チームを去る指揮官からの無言のメッセージだった。鈴木もその思いを背負って打席へ向かった。
併殺崩れでも外野フライでも1点を取れる状況だった。レギュラーシーズンでは得点圏でも、高卒2年目とは思えぬ落ち着きを見せていた鈴木だったが、CSの舞台は特別だった。高ぶる気持ちとは裏腹に、技術も精神力もまだまだ未熟だった。
初球、内角のボール球となる真っすぐに手を出して空振り。はやる気持ちがバットを止められなかったように映った。そんなわずかな気持ちの揺れを阪神の左腕エースに突かれた。
そして3球目、外角に落ちるチェンジアップを引っかけて三塁ゴロ。本塁に送球されフォースアウト。続く會澤翼も見逃しの三振に倒れ、この試合最大の得点機を逃した。
結局、鈴木は5打数無安打に終わり、試合もスコアレスの引き分けでCS敗退が決まった。
この年のオフ、あの舞台で打つため、頭のなかに能見の姿を描きながらひたすらバットを振った。
翌年も能見には18打数4安打、打率.222に抑えられた。それでも8月26日の阪神戦(マツダスタジアム)では、あの時と同じ2打席凡退で迎えた3打席目に、初球のチェンジアップをレフト前に運んで能見をマウンドから引きずり下ろした。
スター街道を走り始めた5年目の2017年8月22日、DeNA戦で右足首を骨折し、長期離脱を余儀なくされた時も「野球の神様が見つめ直す時間をくれた」と受け入れた。そしてその翌年、鈴木はリーグ3連覇に貢献し、誰もが認めるチームの中心選手となった。
失敗や挫折から逃げるのではなく、それを始まりとしてとことん向き合ってきた。だからこそ強くなれたし、選手として成長することができた。鈴木誠也の目指す先は、まだまだ遥か遠くにある。
(※引用元 web Sportiva)