チームが優勝から遠ざかるなか、2015年に広島東洋カープの監督に就任した緒方孝市元監督。初年度こそファンにとって不可解な采配が目立ったものの、その後はカープを三連覇へと導く功績を達成した。
カープ一筋33年……そのうちの監督を務めた5年間を振り返った書籍が『赤の継承 カープ三連覇の軌跡』だ。ここでは、同書を引用し、大ブーイングの中でシーズン終了セレモニーを行うこととなった“あの”一戦で緒方孝市監督(当時)は何を考えていたのか、舞台裏のドラマとあわせて紹介する。
千載一遇の中での屈辱
最初は大型連敗を喫し、どうなることかと思った2015年シーズンだったが、5月以降は持ち直し、5分の成績で戦えるようになった。勝ったり負けたりを繰り返す中で迎えたシーズン最終盤、野球の神様はあまりに劇的な幕切れを用意していた。
10月7日、公式戦143試合目、カープはこれに勝てば3位、負ければ4位という試合を戦うことになった。
つまりCSに出場できるかどうかが決まる運命の一戦、それがホームのマツダスタジアムで行われるシーズン最終戦にぶつかるという、奇跡的な状況が出現したのである。
本来なら優勝を目指して戦ったシーズンである。最大の目標を逃したチームにとって、少なくともAクラスに入ってCS出場を果たすというのは最低限のノルマだった。この2年間突破できなかったCSの壁を今年こそ打ち破り、下剋上で日本シリーズに出るのだ──その気持ちは選手の中に息づいていたし、私の中にも強くあった。
そのためにはまずファンの前で勝って3位に入り、CSへの出場権を獲得しなければならない。この試合は絶対に勝たなければならない!──ファンの熱気も最高潮に達し、3万2024人という大観衆を飲み込んだマツダスタジアムで試合ははじまった。
ジョンソン、大瀬良、黒田をベンチに備える万全の体制
私は最終戦のマウンドに前田健太を送った。シーズンでもっとも大事な試合には、チームのエースである彼に立ってもらわなければならなかった。ベンチにはジョンソン、大瀬良、黒田といった面々もスタンバイし、チーム全員で戦う態勢も整えた。
しかし皮肉なことに、この試合は2015年を象徴するような展開を辿ることになる。
何といってもまったく打てない。相手の中日にとっては大ベテラン投手・山本昌の現役ラスト登板という重要性はあったが、チーム成績は5位が確定し、勝っても負けても大勢に関係ないという状況である。しかもカープはホーム広島での戦い、しかもシーズン最終戦。どう考えてもウチにアドバンテージがあるはずだった。
ベンチで泣き崩れる大瀬良
にもかかわらず打てない。打線は沈黙を続ける。マエケンも先制点を与えまいと粘投するが、中4日の疲れもあり本調子にはほど遠い。スコアボードに両チーム“0”が並ぶ中、8回に大瀬良へとスイッチ。直後に被弾して3失点。ベンチで泣き崩れる大瀬良。結局打線はわずか1安打に終わり、何の反撃もできないまま0‐3の敗戦。CS出場は夢と消え、異様な雰囲気となったマツダスタジアム。そして大ブーイングの中でシーズン終了のセレモニーが行われる……。
もし、33年間に及ぶ野球人生の中で、もっとも重要な1年を挙げろと言われたら私は間違いなく監督1年目のこの2015年を挙げる。そして、もっとも重要な試合を挙げろと言われたら、迷わず無残に敗れ去ったこの中日戦を挙げる。
この試合に比べたら、25年ぶりの優勝を実現した東京ドームの歓喜も、3連覇を決めたときのマツダスタジアムの一戦も足元にも及ばない。私の原点はそんな華やかな場所には存在しない。私の記憶に深々と刻まれ、私の野球に対する姿勢を大きく塗り変えることになった試合は、この試合しか考えられない。
この試合は本当に、私の野球人生を象徴する集大成のような試合だった。すべての要素が濃縮して詰まっている、一生忘れられない試合だった。
「情」を優先した私の判断ミス
実は、試合の裏側では多くのことが起こっていた。観ているファンにはうかがい知れない、さまざまなドラマが錯綜していた。
試合は0‐0の緊迫した投手戦で進んでいたが、球数がかさんでいたこともあり本来はマエケンを6回で交代させることにしていた。7~8回はジョンソンに行ってもらおうとブルペンでは準備をはじめていた。
しかし6回裏にマエケンに打席が回ってきた。マエケンは「もう1回、僕に投げさせてください」と私に直訴してきた。彼は普段そんなことを言う男ではない。しかしこのときは、どうしても自分の力でチームを勝たせたいという強い想いがあったのだろう。マエケンはこの年、エースとして文句のない働きをしてくれた。そんな男が、普段は絶対に言わない「もう1回投げさせてくれ」という要望をぶつけてきた──。
私はマエケンの申し出を退けることができなかった。彼をそのまま打席に向かわせた。
ただし、そのことでジョンソンへの継投は流れることになってしまった。ジョンソンは前回の登板から中3日という状況。試合前の話し合いで「肩を作ったらすぐに投げさせてくれ。二度三度と肩を作ることはできない」と言われていた。ブルペンで肩を作った直後なら登板できるが、一回作って休んだ場合、肩が冷えてしまうのでマウンドでは投げられないという取り決めが事前に結ばれていた。
すべては私の監督としての決断力のなさ
その結果、7~8回をジョンソンで行くという案は崩れ、新たな継投が必要になった。志願のマエケンは7回を投げたものの、そこで限界を迎えてしまった。9回は中﨑が投げるとして、黒田に延長戦を託すとしたら、じゃあ8回は誰が行くか?──私の中では大瀬良しかなかった。
本来この日、大瀬良が登板する予定はなかった。不測の事態が起こったとき、最後の最後の選択肢として彼に投げてもらうかもしれないという意図でベンチに置いている状態だった。
すでに大瀬良が登板過多になっていることは知っていた。人差し指に血行障害が生じて、満足にボールを握れないこともわかっていた。大瀬良はチーム事情でシーズン途中に中継ぎに回り、文句を言わず大車輪で働いてくれた。そのツケが回ってきていたにもかかわらず、私は最後の最後まで大瀬良に頼らざるを得なかった。
そして彼は打たれた──それはシーズンを通じての彼の酷使がもたらしたものだった。大瀬良がベンチで流した涙は、私が流させたようなものだった。
さらに言えば、私がマエケンに対して非情になれていれば、あの場面で大瀬良が投げることはなかった。あの瞬間、私の中に迷いが生じてしまった。そう考えるとあの失点は必然であり、すべては私の監督としての決断力のなさに起因する。
大事な最終戦での敗戦に対して、ファンが感じた怒り、悲しみ、悔しさ、情けなさ……は並大抵のものではなかった。試合後、マツダスタジアムで行われたセレモニーでは怒号や罵声が降り注いだ。
最終戦が出発点になった
セレモニー後、私はひとり監督室に戻っていた。
まだ気持ちは呆然として、頭の中は真っ白だった。全身がしびれたようになっていて、何も感じることができなかった。
「ああ、勝てなかった……」
頭の中はそのことばかりがこだましていた。まだ敗戦を受け入れられず、現実そのものから遊離したような状態だった。
そんなとき、監督室のドアが開いた。突然誰かが入ってきた。
「監督、すいませんでした!」
入ってきたのはトレーニングコーチの根本淳平(現ロッテ・トレーニングコーチ)だった。淳平はボロボロ涙を流していた。淳平の涙を見た瞬間、私の目からも涙がこぼれた。急に現実が戻ってきて、感情が溢れ出したような感覚だった。
「監督、申し訳ありませんでした!」
また別の男が監督室に飛び込んできた。今度はトレーナーの松原慶直だった。松原もまた泣いていた。さらに、
「すいませんでした、監督!」
ピッチングコーチの畝龍実も入ってきた。私は3人に対し、
「とんでもない、俺の力不足で申し訳なかった!」
と叫んでいた。本当はその後「謝るのは俺の方だ……」と続けたはずだが、それが声になったかどうかはわからない。私はすっかり緊張の糸が切れてしまっていた。
蛍光灯が煌々と灯る無機質な監督室で、大の大人たちが涙を流していた。さまざまな感情が暴れるまま、ボロボロ大泣きしていた。私たちは悔しくて、情けなくて、申し訳なくて、腹立たしくて、そんなすべてが言葉にならず、ただオイオイと声を漏らすばかりだった。
自らの無力さに涙を流すだけ
あのとき、私たちは確かにドン底を見たのだった。これ以上ないほどの無様な負け様。私たちは自らの無力さを眼前に突き付けられ、涙を流すことしかできなかった。
ただ、それと同時に私は不思議な安堵感に包まれていた。シーズン後半、私は監督という立場ゆえの孤独を感じていた。「結局俺はひとりで戦っているんじゃないのか?」という想いに苛まれていた。
しかし試合後の監督室では私と共に3人の男が泣いてくれていた。私は、
「みんな必死で戦ってきたんだ。みんな監督である私を支えてくれていたんだ」
ということを肌で感じた。私はずっと自分は孤独だと思ってきたが、本当は一人ではなかったのだ。
それが私たちの出発点となった。
ここからはじめなければいけない。この屈辱から、もう一度立ち上がらなければならない──。
2015年の最終戦がなければ、それ以降の私はなかったことだろう。もしかして、それ以降のカープもなかったかもしれない。
何度も書く。
私のすべては、ここで生まれ、ここからはじまったのである。
(※引用元 文春オンライン)