ヘルメットが赤になったワケ
1975年、広島カープは球団創設26年目にして初優勝を果たした。今回は長年にわたって染みついた負け犬根性を一掃した指導者について書く。
その男、ジョー・ルーツはクリーブランド・インディアンスの打撃コーチとしてアリゾナでキャンプを張っていたカープを指導したことがきっかけで1974年に来日し、打撃コーチに就任。この年、チームは最下位に沈み、監督の森永勝也が責任を取って退任したのを機に監督に昇格したのである。
監督に就任して、まずルーツが最初に行ったのが帽子の色の変更である。
「赤は戦いの色。今年は闘争心を前面に出す」
紺を赤に変えたのだ。
監督に就任して、まずルーツが最初に行ったのが帽子の色の変更である。
「赤は戦いの色。今年は闘争心を前面に出す」
紺を赤に変えたのだ。
なぜルーツは「赤」を選んだのか。推測だが、ルーツがインディアンスのコーチをしていた1972年、73年頃と言えばシンシナティ・レッズの全盛期だ。監督は“スパーキー”と呼ばれた激情家のジョージ・アンダーソンだ。ルーツにはスパーキーに対する憧れがあったのではないだろうか。
ちなみにルーツは太平洋戦争中、南太平洋で海兵隊員として日本軍と戦っている。原爆を投下され、焦土と化した広島のまちにできた球団のことは気にしていたようで、来日にあたっては夫人から「危険な目に遭うのでは……」と心配されたという。
若いカープファンから「ルーツってどんな人でしたか?」と問われると、私は「アメリカ版星野仙一」と答えることにしている。
選手たちを鼓舞したルーツの言葉
とにかく闘争心のある選手を好んだ。その代表格が阪急からトレードで獲得した宮本幸信である。
忘れもしない4月11日、広島市民球場での中日戦で“事件”は起きた。ストライクボールの判定を巡って激昂した宮本はなんと審判に跳び蹴りをくらわしてしまったのである。“キックの鬼”と呼ばれた沢村忠ばりの跳び蹴りだった。それ以降、宮本はチームメイトから“キックの宮さん”と呼ばれるようになった。
2点のビハインドで迎えた9回表、一死満塁の場面。カウント2-2からの5球目、好打者の木俣達彦に対し宮本が投じたインローのストレートは、ストライクゾーンを通過しているように見えた。ところが球審の判定はボール。
宮本は語る。
「私は完全にストライクだと思ったものですから、瞬間的に審判に向かって『コースか!? 高さか!?』と叫びましたよ。ところが審判は答える素振りも見せず、プイと横を向いた。私はその態度が許せなかったんです。気付いた時にはマウンドから駆け降り、もう審判を蹴っ飛ばしていました」
実はこの球審、原田孝一という人物で、宮本の阪急の先輩だった。プロ野球の世界はタテ社会である。先輩、後輩の関係は死ぬまで続く。そんな間柄でありながらの跳び蹴りだから、宮本の激怒ぶりがしのばれる。
再び宮本。
「あの後、広島のまちで警察の方に声をかけられましたよ。“宮本さん、グラウンドの中といっても治外法権じゃないんですから”って……」
試合後のミーティング。ルーツは退場になり肩を落としている宮本を向き、全員に聞こえるようにこう言った。
「宮本がやった行為は悪いけど、私はこのファイティングスピリッツが欲しかったんだ」
指揮官のこの言葉に、宮本はどれだけ勇気づけられたことか。
「あの跳び蹴りも、本来ならキャッチャーの道原裕幸が抗議する場面。道原以外の選手も皆おとなしかった。山本浩二も衣笠祥雄も……。ずっと弱いところでプレーしてきたものだから、闘う要素を持っていなかったんです」
阪急で4度のリーグ優勝を経験している宮本は、負けに慣れた選手たちが歯がゆくて仕方なかったのだ。
この年、宮本は主にクローザーとして44試合に登板し、10勝2敗10セーブ、防御率1.70という好成績で初優勝に貢献した。ルーツは4月に球団を去り、後楽園球場で胴上げされたのはバトンを受け継いだ古葉竹識だった。古葉政権下の11年で、広島は4度のリーグ優勝と3度の日本一を達成。赤ヘルが最も輝いた時代である。
(※引用元 現代ビジネス)