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失明の危機も「投げてくれんか?」、カープ初優勝のスーパーマン投手

2021年6月7日

失明の危機も「投げてくれんか?」、カープ初優勝のスーパーマン投手

「昭和プロ野球人」の貴重な過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫る人気シリーズ。当時の個性的な選手たちのなかでも、とりわけ金城基泰(かねしろ もとやす)さんの美しいアンダースローの投球フォームは唯一無二で、今も目に焼き付いているファンも多いだろう。

1974年シーズンに20勝を挙げてブレイクした金城さんは、その直後、とんでもない悲劇に見舞われてしまう。野球どころか、日常生活への復帰すら危ぶまれる危機的状況──。その失意のなかから奇跡的な復活をとげて、歴史的なカープ初優勝へとつながっていく過程が明かされる。

フォーム自体が武器だったと言える金城さんはプロ1年目、二軍で英才教育を受けた。地元の広陵高出身で甲子園のスターだった同期のドラフト1位右腕、佐伯和司と同様に期待された。「一軍のバッターを真っすぐで押し込めないような投手は先発ローテーションに入れない」という指導方針のもと、二軍戦では勝敗関係なく真っすぐ一本のピッチングに徹することもあった。

そうして2年目の72年には、「この試合、抑えたら一軍」という機会も増え、5月に昇格して救援でプロ初登板。8月の阪神戦で初先発を果たして初勝利を挙げた。

「チームは最下位やったから、若手を育てる余裕ありますよね。見切り発車で上げてもらって、たまたま勝ってしもうたんですけど、その1勝で目の前がパッと明るくなって、野球に対する意識もちょっと変わりましたね。その年は3勝3敗で終わったんですけど、一応、プロの選手になれたかなと」

同年は27試合に登板し、70回2/3を投げて防御率は3.95。与四球は44個と多かった反面、62奪三振を記録している。全7試合で先発し、9月の巨人戦ではわずか1失点で初完投勝利も挙げた。ピッチングが向上した要因は何だったのか。

「二軍じゃなしに、一軍の試合で覚えていけた、ということです。投げて失敗して、抑えて、ああ、こうやったらできるんかと。投げ方もね、練習ではできない、バッター相手の技術の習得ってあるんですよ。練習はひとりだから自己満足になりがちですけど、実戦ではバッターの雰囲気、見逃し方とか、いろいろあるから。

左バッターと右バッターで投げ方は違ってくるし、同じ球を投げても、体の止め方、開き方も変わっていく。そういう感覚、閃(ひらめ)きみたいなもんは自分でつかんでいくもんでしょう。コーチには教え切れないと思います。基本的なこと、大枠は、長谷川さんはじめコーチの方に教わりましたけどね」

長谷川良平コーチの名前が出た。金城さんがブレイクする73年に就任しているのだが、果たして、当時あったという「ケンカ」の原因は何だったのか。

「自主トレ、キャンプと、1球も投げさせてくれない。ただシャドーピッチングを毎日。一度もボールを投げられないってきついですから、気が変になりますよ。それでオープン戦の中盤ぐらいになっても投げさせてくれない。

実際、試合で投げられないです、肩もできてないし。それで長谷川さんのとこ行って、『自分で責任取れますから、投げさせてください。やめることになってもいいですから、もう我慢できません』って言ったら、『勝手にせえ』と。それでケンカになって……」

金城さんによれば、長谷川コーチ自身が現役時代は下手投げに近かったから、技術的に至らない点が如実に見えたらしい。そこでフォーム固めのため、あえてボールを握らせなかった。同時に精神面、考え方を数多く教えられたという。

なかでも、「頭で理解したからといって、毎日取り組んでもできないことはいつまでたってもできない。それをわからないまま、みんなクビになっていくのだから、自分で工夫してできることをやれ」という教えは特に響いたという。

この指導でプロ意識が高まった金城さんは、同年40試合に登板して10勝6敗という成績を残した。131回1/3を投げて、防御率2.54はリーグ8位だった。決め球は「荒れ球」で明確な変化球もなかったが、曲がらないカーブがチェンジアップのような効果をもたらし、緩急をつける投球で結果を出した。

そして、翌74年の金城さんは一気に前年の倍増となる20勝を挙げる。同じく20勝を挙げた中日の松本幸行(ゆきつら)とともに最多勝のタイトルを獲得した一方、リーグ最多となるシーズン207個の奪三振を記録した。

「でも、あれは作られた20勝やから。もうチームは最下位で、お客さん喜ばすために外木場さんと二人で最多勝争いして話題を作ったような。勝てそうな試合に投げさせてもらったり、5勝ぐらいは球団の方針みたいなもので勝たしてもらったと思います。

ただ、同期の佐伯と張り合ってたから。前の年、僕が10勝のときに佐伯が19勝してクソッと思ってたんで、20勝してやっと肩並べたなっていう気持ちにはなりましたけどね」

球団の方針による結果だったとしても、44試合に投げて11完投、完封も2試合。18勝を挙げたエースの外木場義郎(そとこば よしろう)と同等の働きだった。ところが、同年オフ、同じ球団の方針のあおりで、金城さんは選手生命の危機に立たされることになる。

「オーバーホールを兼ねた20勝のご褒美」として、球団の費用で大分・別府温泉に滞在中の10月12日。霧の深い朝、車同士が正面衝突する交通事故に巻き込まれ、助手席に乗っていた金城さんは顔がフロントガラスを突き破る重傷。両眼が傷つき、失明寸前になった。

このとき、球団を実質的に経営する東洋工業社長、松田耕平オーナーが、東洋工業附属病院の眼科部長でもある副院長に命令した言葉が、当時の新聞記事に載っている。

〈20勝を挙げ、タイトルを獲ったチームの大黒柱をこのままダメにしたのではウチの恥でもあり、金城の将来がメチャメチャになってしまうではないか。絶対に元に戻せ〉

手術を経て、失明の危機は脱した。が、退院は翌75年4月。「これ以上の回復は期待できない」と判断されてのことだった。

「社会復帰、2年ぐらいは無理かなあって先生に言われました。それで合宿所でずっと療養してるとき、監督室に呼ばれたんです。古葉さんにね。オレ、クビんなるんかなと思ったけど、クビになるとしたら、呼ばれるのは球団事務所かって思い直して」

引退も覚悟せざるを得ない状況だったが、5月、同年シーズン途中に就任した古葉竹識監督は金城さんに面と向かった。

「何とか、できんか?」

「はっ?」

「今なあ、おまえも知ってのとおり、投手陣は火の車だ。ひとりでもピッチャーほしい。医者にも話は聞いてるけど、いや、無理にとは言わんけど、これは俺の気持ちで言ってる。スーパーマンになれんか?」

まだ真っすぐ歩けず、特殊なコンタクトレンズを装着しないと目が見えない状態だった。どう考えても無理するしかなかったが、「わかりました。じゃあ、やってみます」と答えた。それにしても「スーパーマン」はすごい。金城さん自身も、そのとき「すごい」と思ったという。

「選手として、そこまで必要とされて、おだてられたらね。ふふっ。ただ、そんなに活躍できるとは思わなかった。ひとりでも抑えられたらええかなあ、ぐらいの気持ちでね」

リハビリを終えてブルペンに入った後、緩急の「緩」を向上させることに取り組んだ。復帰登板は8月2日、広島市民球場での大洋(現・DeNA)戦。金城さんは2点ビハインドの9回に5番手でマウンドに上がり、無失点に抑えた。

このとき、広島は首位の中日に1.5ゲーム差で3位。その5日後、2位となって迎えた神宮球場でのヤクルト戦、1点ビハインドの7回二死三塁の場面。3番手で登板した金城さんは三振でピンチを切り抜けた。すると味方打線が8回に3点を奪って逆転。9回にも1点を追加し、打者7人を無安打に封じた金城さんは、復帰後初勝利を果たした。

「ライバルのヤクルトのファンからもすごい応援があって、あれはうれしかった。それに、最後のバッターになった大杉勝男さんが、ニコーッと笑ったような顔して帰っていった。僕がそう感じて、そう見えただけかもしれないけど、『ご祝儀だ。頑張れよ』って言ってくれたような気がしたんです」

こうして金城さんが復活を遂げた日、広島は首位に立った。以降、一度も陥落せずに走り続け、10月15日、後楽園球場での巨人戦。古葉監督からは「二番手」とだけ言われていて、声がかかったのは1対0で迎えた8回。先発の外木場が一死一、二塁として、一打同点、長打なら逆転のピンチの場面だった。

1回から緊張してブルペンで待機していた金城さんだったが、いざマウンドに上がると気持ちが落ち着いた。逆に内野手の大下剛史、三村敏之、衣笠祥雄が一様にうわずっているのがよくわかった。大下が言った。

「だいじょぶか?」

「だいじょぶかって、僕、こんな場面で打たれたとこ、一回でも見たことある?」

「わかったわかった、わかった」

絶対的な自信があった。前年限りで退団した長谷川コーチがこう言い残していた。

「おまえには、プロのピッチャーの技術はない。でも、ピンチでも思い切って腕を振るし、絶対にビビらない。それが、他のピッチャーにないおまえのええとこやし、それだけで生きていける。だから細かいこと考えんでええ」

きっちり後続を断った金城さんは、9回に打席が回るとヒットで出塁。元来のバッティングのよさが自らを助けることになる。その後に3番・ホプキンスの3ランが飛び出し、4点リードで9回裏を迎えられたのだ。

「やっぱりバッターになったほうがよかったかな。ははっ。ただ、最後9回を締めて胴上げ投手になれましたけど、後でゾッとしました。今考えても気持ち悪いです。8回は1対0でしょ? もし僕が打たれて負けとったら、中日が逆転優勝してもおかしくなかった。歴史が変わってます、たぶん」

言われてハッとした。1998年から昭和の野球人取材を始めて以来、自らのプレーを振り返りつつ、歴史が変わる可能性に言及した方は金城さんが初めてだ。失明の危機からカムバックし、16試合に登板して1勝0敗4セーブ、防御率2.67。広島初優勝という歴史の一大事を背負ってマウンドに立った精神力、いったいどこに由来していたのか。

「失明するって言われてたとき、松田オーナーは副院長に『お前のクビかけて治せ。選手として復帰せんでもええから、この子の将来があるから、片目だけでも治せ』とおっしゃったそうです。そういうことをいろいろ聞いていたから、古葉さんに言われて、やってみようかなと思ったんです。普通やったら、ポイでしょ? もうあかんわコイツは、となったら」

広島でなければ、カムバックも、スーパーマンもなかった──。その後、古葉監督との確執もあって77年に移籍した南海では抑えで活躍し、79年、80年と最優秀救援投手のタイトルを獲得。85年に巨人に移った後、最晩年は韓国でプレーした金城さん。17年間の現役生活のうち広島時代は6年と短いのだが、特別な思い入れがあるという。

「僕、3球団いったけど、やっぱりカープがいちばん恩がある。育ててもらって、大事にしてもらって。今も球団には感謝してます」(高橋安幸)

(※引用元 web Sportiva

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