プロ野球のレジェンドに、現役時代やその後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第9回は広島一筋で17年プレーし、監督も5シーズン務めた野村謙二郎さん。プロ2年目で背負った重圧を見事はね返してレギュラーに定着。トリプルスリー(打率3割、30本塁打、30盗塁)も達成した。(共同通信=栗林英一郎)
▽篠塚さんに憧れて左打ちに転向
僕が小学校から高校まで投手をしたことがあると一部のインターネット上で紹介されているようですが、それは弟(野村昭彦さん=環太平洋大監督)のことじゃないですか。僕は野球を始めてから、ずっとショートですよ。
小学生の頃は自分でもうまいと思っていましたが、体がそんなに大きい方ではなかったので、中学では打撃よりも守備の方が軸でした。打順は2番を打ったり下位を打ったり。野球は好きだけれど、打つことに関しては、あまり面白くないなという記憶があります。
中学を卒業する時に、母校となる大分・佐伯鶴城高の大先輩の人に左打ちを教わり、高校から左で打ちました。自分のスピードを生かしたいというのがあって。根本的には右で打てていませんでした。(左打ち転向は)篠塚和典さんが巨人で活躍され始めた頃です。篠塚さんは千葉・銚子商高の時、甲子園大会で金属バットが解禁になったのに、一人だけ木製バットで打っていましたね。線も細く、体もそんなに大きくないのに。篠塚さんにお会いした時に「僕は篠塚さんを見て左打ちに変えました」と言いました。僕の中の神様は篠塚さんですと本人に伝えたんです。
高校でも簡単には打てませんでした。硬式に変わり、パワーもなくて。試合に出たらセーフティーバントみたいな感じ。3年生では時々右でも打っていました。2年間ぐらいで左打ちはしっくりきたなと思っていたのに、左投手のカーブは打ちづらかった。プロになってからは左は全く苦にならなかったし、調子が悪い時は左投手の方が打てるくらいだったのに。
駒澤大時代も、ほぼ左で打ちましたが、面白い話があるんです。2学年上に亜細亜大の阿波野秀幸さん(東都大学リーグで通算32勝)がいて、優勝するには阿波野さんを攻略しないといといけなかった。当時の太田誠監督は僕が右で打っていたのを知っていて、明治大との練習試合で相手が左投手だったので「おまえ、右で打ってみろ」と言われたんです。そうしたら、まぐれでホームラン。自分でもびっくりです。それで、対阿波野は右でいけと指示されましたが、結果的に阿波野さんと2年間対戦してヒットは1本も打てませんでした。
▽折れたバットを調べた古田敦也
1989年に広島に入団して最初のキャンプに行った時、1日目でもうやめようと正直思いました。勘違いしていました。プロ野球をなめていたんです。こんなスピードで、こんなすごい打撃をするのかと。大学でちょっと上手だったから、ドラフト1位指名で夢も希望も大きく膨らんだんですが、とんでもないところに来てしまった。3年間やって駄目だったら諦めようと思いました。
2年目が始まる前に高橋慶彦さんがトレードで移籍して、次のショートは野村だろうということになりました。「はい、どうぞ」みたいにポジションを与えられて成績を残さなかったら嫌だから、めちゃくちゃプレッシャーを感じました。大下剛史ヘッドコーチから「オフはないぞ」と言われました。その時に「アスリート」(広島市内のトレーニングジム)へチームで最初に行き始めたのが僕と高信二なんです。とにかく体を大きくしてパワーをつける。オフにずっとジムに通って体重も増え、キャンプの時に打球が速くなっていたのを感じて、やっぱりやって良かったなと思いました。2年目の打率は2割8分ぐらいで盗塁王も取り、振り返れば十分な成績ですけれど、あっという間の1年でした。余裕はありませんでした。
レギュラーになった90年はスタートが体重70キロぐらいで、夏場は66キロ。もう食べなきゃ食べなきゃという感じ。経験がないので(体調管理は)未知数ですよね。そういうことも配慮してなのか、調子良く打っている僕に打撃コーチの水谷実雄さんが「おまえ、疲れてるか」と声をかけてきました。若手の当時は疲れていると口が裂けても言えないので「疲れてないです」と返すと「いや、疲れている。外出禁止」って。出歩いたりして体調を崩すなよという意味だったのでしょう。2年目は遠征に私服を持っていったことがありませんでした。球場とホテル。そういう生活でした。
1995年のトリプルスリー(打率3割1分5厘、32本塁打、30盗塁)の時は、歯の治療をしてかみ合わせを良くしたとか、初めて子どもができてうれしかったからとか、要因を取材されましたが、よく分からないんです。どうして30本塁打できたのかも分かりません。ヤクルトの古田敦也さんは「フォームを変えたの? バット変えたの?」とか試合中や練習中に聞いてきました。広島市民球場でのヤクルト戦で最後の打者になった時のことです。凡打して、バットがぐしゃっと根元から折れたんですが、そのバットを古田さんが持っていきました。どうしたのかなと思ったら「何か細工していないか調べた」って言われました。それだけ、僕がこんなに打つわけないと。古田さんも冗談でやったんでしょうけど。
▽小学生に言われた「野村はもうおしまいやな」
2千安打到達までの一番のピンチは2000年の肉離れ。実はこれ、肉離れじゃなくて筋断裂なんです。今でも左脚の後ろの筋肉がつながっていなくて、べろんとなっています。この時はもう無理だなと思いました。山本浩二さんが監督で戻ってこられて1年たった02年ぐらいに、もう選手をやめようと考えたんです。2千本も、もういいやと思って浩二さんに相談しました。その時に浩二さんが「バカか。ここまで来て(2千安打まで)あと何本や。絶対、死にものぐるいでいけ。打たす」と言うんです。「打たすって言っても」「いや打たす。その代わりに、とにかくしがみついてやれ」と。僕は2千安打を打った人間じゃなくて、打たせていただいた人間です。
ちょうどその頃には、新井貴浩がレギュラーになっていました。ある時、息子がキャッチボールをしてくれと言うので自宅の前でやっていたら、野球少年が2、3人現れました。「君らもキャッチボールするか」と声をかけようとしたら、すーっとどこかへ行ってしまった。照れているのかなと思ったら、また、だーっと来て、僕に聞こえるように「野村も年だし、よくけがをするし、もうおしまいやな。これからは新井やな。新井の時代や」って。小学2、3年生ぐらいの少年がですよ。これは世間が、親がそう言っているから、子どもがまねるんですね。それをうちの息子に聞かれてしまったんです。「よっしゃ、この1年、絶対にやってやろう」と決意し、ずっと行っていなかった秋のキャンプにも参加しました。
内田順三コーチにお願いして、特別扱いしないでくれと。「謙二郎、壊れるぞ」「もうオフだから壊れてもいいです。壊れたらそれまでです」という感じで。2003年のことですね。
浩二さんには2千安打を打たせると言われましたけれど、レギュラーで常に試合に出ていた時に比べて、出なくなって以降は自分の気持ちの持って行き方が難しかったです。
野村 謙二郎氏(のむら・けんじろう)
大分・佐伯鶴城高―駒大から1989年にドラフト1位で広島に入団。俊足好打の遊撃手で、91年のリーグ優勝に貢献した。盗塁王3度、ベストナイン3度。2005年6月に通算2千安打を達成し、同年限りで引退。10年から広島の監督を5年間務めた。1966年9月19日生まれの56歳。大分県出身。
(※引用元 47NEWS)