鉄人が、この世を去った。
日本球界に数々の功績と偉業を残した元広島東洋カープの衣笠祥雄氏が上行結腸がんのため、4月23日に死去した。71歳だった。
1970年代後半から1980年代にかけてカープ黄金時代の主力として名を馳せ、引退するまで2215試合連続出場記録の金字塔を打ち立てた名選手。あの王貞治氏に次ぐプロ野球界では2人目となる国民栄誉賞も受賞し、野球殿堂入りを果たした。背番号「3」は広島の永久欠番だ。
間違いなく誰もが認めるスーパースター。ところが非常に不思議なことがある。1987年のシーズンをもって現役引退後は一度も指導者としてユニホームを着ていないのだ。65年に広島へ入団して以来、23年間に渡ってカープ一筋の生え抜き。誰しもが認めるカープの功労者だ。
これだけの偉人で実績十分な衣笠氏であれば、文句なしにカープの監督としてタクトを振るう資格があったはずである。ところが、ついに古巣の監督どころかコーチにすら就任する機会が巡ってこないまま天に召されてしまった。
ただチームOBや球団関係者、また現場首脳陣やスタッフ、選手の間でも衣笠氏の指導者としてのカープ復帰が難しかったことは広く知れ渡っていた。その理由としてウワサされているのが球団経営陣との「確執」だ。
特に現在の3代目オーナー、松田元氏とは「もともと折り合いが悪い」とささやかれており、そのイザコザを生んだきっかけについてもさまざまな説が水面下では飛び交っている。
カープの現経営陣と衣笠氏の関係
「実は衣笠氏が現役時代に松田元氏の実父で当時の2代目オーナー、耕平氏と親しい関係にあったことにも深く起因している。歯に衣着せぬ言い回しでズバズバと耕平氏と直々にマンツーマンで話ができる立場だった当時の衣笠氏に対し、後々オーナー代行の座へ就くことがほぼ約束されて松田家の跡取りとして帝王学を学んでいた元氏が、どうやら強い警戒心を覚えたらしい」
「元さんはオーナー代行になって以降、球団経営の権限を握ると、キヌさん(衣笠氏)が監督になればコーチを含めたスタッフは自分の息のかかった人物で固めるだろうと考え、それを嫌がって指揮官就任を頑として認めようとしなかった。要するに衣笠体制にゴーサインを出せば、球団主導でスタッフを決められなくなり自分たちのコントロールが効かなくなることを元さんは恐れていた。
スタッフの選定作業は球団がすべて行うという条件を本人が飲んでいれば、おそらく衣笠監督は誕生していただろう。実際、本人にそういう条件で『監督をやらないか』というような話はもたらされたらしい。ただキヌさんが、その打診に『NO』の姿勢を貫いたそうだ」――。
これらの話は確たる裏づけがなく噂話の領域を出ない。ただし赤裸々に当時についてこのように回想しながら指摘するカープ関係者やOBが複数いることは確かだ。
いずれにせよ、はっきりと言い切れることは残念ながらカープの現経営陣と衣笠氏の関係があまり良好ではないという点だ。現に衣笠氏の訃報が明らかになった24日の時点で球界有識者たちの追悼コメントも次々と各メディアを通じて世に出回ったものの、松田元オーナーの言葉は公にされることはなかった。カープであれほどの功績を残した功労者に球団トップの人物が何も口にしないという図式は理由はどうあれ、やはり不可解だ。
晩年は「仏の鉄人」と呼ばれた
球団側からは「24日の時点で報道こそされていたが、衣笠氏の親族が公式に死去を認めていなかったから公式のコメントは出しづらい」との声も聞こえては来ていたが、これだけ世の中に「鉄人死去」の訃報で反響が広まっていたのだから普通に考えて当日すぐにトップの経営者が何らかの対応をして然るべきであろう。しかも前述したように衣笠氏の現役時代の背番号「3」は永久欠番であり、本拠地のマツダスタジアムにも同氏の偉業を称えるレリーフが2010年から設置されている。
そうであるにもかかわらず、衣笠氏の死去が明らかになった24日、チームの面々は球団側から何ら指示を受けることもなく、敵地・横浜スタジアムで行われた横浜DeNAベイスターズとの公式戦でユニホームに喪章をつけてプレーすることもなかった。
緒方孝市監督は試合前、報道陣に囲まれると神妙な面持ちで衣笠氏の訃報に関する悲しみの言葉を発したとはいえ、どこか球団経営陣とチーム、そして故人の間には何ともスッキリしないギクシャクした感が漂っていたのは紛れもない事実であった。
だが、もしかすると衣笠氏本人は古巣に指導者として復帰できなかったことに対し、特に何も感じていなかったのかもしれない。プレーヤーとして「鉄人」の異名を取りながらも引退後、その素顔は非常に穏やかな人物で周囲に波風を生むことを嫌い、気配りのできる人格者であった。鼻高々に振る舞うことなど絶対になく、どういう人に対しても笑顔で接し、晩年は「仏の鉄人」と呼ばれていた。
著名なプロ野球OBならば古巣の球団側に「監督をやらせてくれ」「コーチでいいから、もう一度ユニホームを着させてほしい」と自分からいろいろなアプローチをかけて懇願することなど、この世界では日常茶飯事。だが衣笠氏はひとたびユニホームを脱いでグラウンドを離れると基本的に無欲で平和主義者であり、そういう媚(こ)びへつらう姿勢については極端に毛嫌いした。
夢と消えてしまったカープ復帰
野球が誰よりも好きなことを自覚していたからこそ自分がユニホームを再び着用して指揮官に就任すれば、それまで抑えていたリミッターが外れ、逆に曲げられないポリシーをどんどん貫いてフロント幹部や経営陣と衝突してしまうかもしれない。そんなことになってしまったら古巣に迷惑がかかってしまう。犬猿の仲ともささやかれる松田元オーナーや現経営陣に“売り込み”をかけなかったのも衣笠氏がこのように自己分析し、あえて距離を置き一歩も二歩も引いていたからのような気もする。
ついに古巣とは交わることなく夢と消えてしまった鉄人、衣笠氏のカープ復帰。そこには「たまたまタイミングがなかった」の一言では済まされない、複雑な人間模様と舞台裏のドラマが激しく交錯している。
いろいろな事情があるとは思うが、せめて広島現経営陣には衣笠氏の追悼試合は近々に組んでほしいと願う。このままスルーなんてことは絶対にないだろうし、そのような寂しい流れにならないと信じたい。もう世に二度と出ないであろう「鉄人」の死を悼み、天国へ送り出すためにも――。合掌。[臼北信行]
(※引用元 ITmedia)