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異例すぎる19歳でのトレードから広島の正捕手に登り詰めた西山秀二

2023年3月29日

異例すぎる19歳でのトレードから広島の正捕手に登り詰めた西山秀二

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

「ボクはカメ。桑田はウサギ」

アントニオ猪木に憧れたその野球少年の夢は、プロレスラーになることだった。

彼は毎日のヒンズースクワットや腕立て伏せに燃え、中学卒業と同時に新日本プロレスに入門したかったが、親に説得されて高校進学へ。ちなみに、もしレスラーになっていたら、1967年生まれで身長174cm、体重86kgのがっしりした体格は、鬼軍曹・山本小鉄に気に入られ、のちにジュニアヘビー級の獣神サンダー・ライガーのライバルとして名勝負を繰り広げていたかもしれない。そんな猪木に死にたいくらいに憧れた少年の名は、西山秀二である。中学時代はあの桑田真澄と最強バッテリーを組んだ強打のキャッチャーだ。

だが、高校進学を巡り、大人の世界の駆け引きに巻き込まれた形になった少年たちはそれぞれの人生を生きる。桑田はPL学園高へ進むと1年夏に甲子園でいきなり全国制覇、やがて巨人でエースナンバーを背負う。西山も上宮高で野球を続け、85年のドラフト4位で南海ホークスへ入団する。86年週べ選手名鑑のルーキー西山の好きな女性のタイプは「薬師丸ひろ子」、趣味の欄はもちろん「プロレス」だ。足も速く二軍戦では遊撃手としても起用されるが、プライベートでは豪快に遊んで度々トラブルを起こす、昭和のやんちゃな若手選手でもあった。

そして、87年6月15日、南海の西山にプラス金銭と、広島の内野手・森脇浩司、永田利則の交換トレードが成立する。入団2年目の6月に19歳の捕手がトレードに出されるという異例の移籍劇だったが、広島や巨人がショートもできる西山に目をつけていた。新天地のカープ1年目、秋の米教育リーグに飛び立つ前、週べの取材に西山が「こんなことをいえば失礼かもしれないけれども、南海にいたら、まずアメリカ行きなど考えられなかったと思います」とちゃっかり本音をポロリ。しかし、のちにYouTubeの『片岡篤史チャンネル』に出演した際に、渡米の前夜に遊びに行ったら酔い潰れて、空港へ向かう新幹線に遅刻してしまったことを明かしている。当然、球団のお偉いさんを激怒させてしまい、アメリカに到着すると、コーチからは反省の丸刈りを命じられたという。

この頃、記者からはよく、19歳で沢村賞を獲得した巨人の同級生右腕のことを聞かれたが、「ボクはカメ。桑田はウサギ。そのうち、対戦する日がやってくると思います」と口にするしかなかった。高校進学で袂を分かち、疎遠になった桑田は自分の遥か先を行っている。だが、先を行っていても、上を行っているわけではない。同じプロの世界で飯を食っている。

プロ9年目で初のベストナイン

5年目の90年4月17日、中日戦で放ったセンターオーバーのタイムリー二塁打がプロ初安打初打点だった。当時の広島は、正捕手の達川光男が30代中盤に差し掛かり後継者の育成が急務。90年ドラフト会議で瀬戸輝信(法大)を1位指名したが、西山は丸顔から“アンパンマン”の愛称で親しまれ、辛口の大下剛史ヘッドコーチも「実戦向きの選手だ」とポスト達川に期待を寄せた。合宿所を出た91年にはプロ初アーチも記録。この年の西武との日本シリーズ第5戦には「六番・三塁」で先発出場して、ヒットを放っている。

グラウンドでもプライペートでも着実に結果を残し、92年オフには電撃結婚。新婦が空手をたしなんでいたことから、披露宴で山本浩二監督は「悪い時はキックなり、手を出すなりして下さって結構。キャンプが終わってまだ10日程度なのに、もう顔がふっくら。こんな具合じゃ困ります。どんどんシッタしてください」なんつって現代なら色々な意味でアウトなスピーチを披露した。

達川の引退で自身初の100試合超えを果たす93年には、盗塁阻止率.462を記録。背番号32はレギュラーの座を掴むと、94年には126試合で初の規定打席にも到達して、打率.284でベストナインに選出。この94年シーズンのセ・リーグMVPは長嶋巨人の優勝の立役者、桑田が獲得するが、ゴールデン・グラブ賞の表彰式でその桑田の隣に座るのは、西山だった。捕手部門で初受賞して、プロ9年目で下積み時代の目標の存在、かつての盟友と肩を並べたわけだ。

だが、年俸5500万円に昇給した翌95年。ライバルの瀬戸が春季キャンプで自信を喪失して実家に帰るアクシデントがあり、球団幹部は「競争のなかでいいものを出してきた西山が、ふっと楽になって気持ちが緩んでしまうのを恐れているんだ」と心配したが、開幕から打率1割台に低迷する。逆襲を誓った西山は、翌春のキャンプで一日も欠かさず早出練習を続け、毎日ひたすらバットを振った。「打てば、すべてはうまくいく。復活のカギは打撃」の宣言通りに、96年は打率.314で恐怖の八番打者と恐れられた。

週べ96年9月9日号では先輩の野球評論家・達川と新旧赤ヘル捕手対談。ある試合でランナーを刺せなかったことをきっかけに自チームが負け、ベンチに帰り三村敏之監督と目が合うと「スイマセン」と謝った。すると、次の日に即スタメン落ち。三村は「あんなところでスイマセンというぐらいだから弱気になっとる。そんなこと言わんでいい。精一杯やっとるのはみんな分かっとるんだから」と外した理由を告げた。それ以降、西山は開き直ってプレーできるようになったという。リードでミスしようが、どうしようが、精一杯やってるんだから知らん顔してやればいい。もうベンチと野球するのはやめだ。29歳の絶頂期、巨人に逆転Vのメイクドラマを許すも、西山は二度目のベストナインとゴールデン・グラブ賞に輝いた。

かつての盟友と巨人で再会

しかし、30代を迎えると、ファイターの西山は左手首の骨折や右ヒザ外側のじん帯損傷など度重なる故障に悩まされる。01年の120試合から徐々に出番を減らし、04年には22試合の出場に終わり、球団からはコーチの誘いをもらった。それでも、現役にこだわり、自由契約となって同リーグの巨人へ移籍する。

すでに37歳になっていたが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。そこで、ひとりの投手と再会を果たすのだ。桑田真澄である。すでに往年の球威やコントロールはなく、05年は0勝7敗、防御率7.25という無惨な成績に終わった背番号18。4月17日のヤクルト戦では、西山は移籍後初スタメンで盟友とバッテリーを組んだが、桑田は3回を持たずKOされてしまう。いつの間にか、若いつもりが、お互い歳をとった。その年限りで現役生活に別れを告げる西山は、『不惑 桑田・清原と戦った男たち』(矢崎良一/ぴあ)の中で、久しぶりに組んだ同級生バッテリーについて、こんな言葉を残している。

「中学で一緒に全国優勝して、いろんなことがあって、でも最後に自分がもう長くねえなあというときに、縁あって同じチームになって……いつかまた組めたらいいなあと思っていたけど、本当にそうなるとは思わんかったから。だって桑田ももうだいぶヨタってたし、キャッチャーには阿部(慎之助)がいるんだから。できれば勝ちたかったけどね。試合は勝ったけど、コテンパンに打たれちゃって」

終わってみれば、19歳の若さで異例のトレードに出された男は、20年間もプロの世界で生き残った。もし、西山があのままホークスでプレーしていたら、運命はどうなっていただろうか? 3年目のオフに南海はダイエーに身売りして福岡へ。94年のドラフト会議で王貞治新監督は、アマ球界ナンバーワン捕手の城島健司を1位指名した。恐らく、のちにメジャーリーガーとなる若き逸材の前に西山の野球人生もまったく違った形になっていただろう。

なお、あの平成最強捕手の古田敦也が君臨した90年代のセ・リーグで、古田以外に複数回のベストナインとゴールデン・グラブ賞を受賞した捕手は、西山秀二ただひとりである。(文=中溝康隆、写真=BBM)

(※引用元 週刊ベースボール

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