デッドボールを当てられても表情一つ変えず、若手に笑顔で話しかける—。広島の英雄に対するこんなファンの印象は、ある意味で正しく、ある意味では間違っていた。その知られざる実像に迫る。
広島の英雄・衣笠祥雄
「毎年この時期になると、キヌさんのことを思い出します。初めて僕を銀座に連れて行ってくれたのはキヌさんだった。合宿で相部屋になったとき、あまりに寝相が悪くて布団の境にテーブルを置いて対抗したこともありました。
昔話も、野球論も、今だから本音で語り合えることがたくさんあるのに、それが叶わないのは寂しいですね」(元広島の高橋慶彦氏)
広島東洋カープの黄金期を支えた英雄・衣笠祥雄が上行結腸がんにより71歳でこの世を去ってから、4月23日で5年の月日が流れた。
「聖人」の真の姿に迫る
三振をいとわず、腰がねじ切れんばかりの豪快なフルスイングでファンを魅了した衣笠は、その野球人生で様々な偉業を成し遂げた。歴代5位タイの2543安打、歴代7位の504本塁打、そして、歴代1位の2215試合連続出場—。
死球を受けて骨折しても、翌日には全力で投手に立ち向かう。そんな衣笠を、いつしかファンやメディアは「鉄人」と呼ぶようになる。
当時の衣笠をよく知るスポーツ紙元記者が話す。
「衣笠さんは、技術・人格ともに『完璧』な野球選手だったと思います。あれだけ偉大なのに、誰に対しても優しい口調を崩さず、丁寧に話す姿が印象的でした。チームメイトや記者に対して弱音をこぼすなんてあり得ませんでしたね」
まさに、「聖人」。その雄姿は、プロ野球ファンの間で永久に語り継がれることだろう。しかし、衣笠が歩んだ栄光の野球人生の裏には、世間が持つイメージとは異なる「人間の実像」があったことを知る人は少ない。
子供の頃は「ワル」だった
衣笠は’47年1月18日、母・キヌさんとアメリカ人の父の間に生まれたが、ほどなくして父親が帰国し両親は離婚、京都に住む母方の祖父に引き取られた。小学校3年生からは母親の再婚相手との生活が始まった。差別が根強かった時代だ。「こうした出自が、衣笠のタフさやハングリー精神を生んだ」と言われている。
しかし、当の本人は過去のインタビューでこう答えている。
「僕は、出自を隠そうと思ったことはない。ただ、『大変だったでしょう』とか、『それが忍耐力の根源になっている』と、なんでも勝手にそこへつなげられるのが嫌なんです」
実際、子供の頃の衣笠は「札付きのワル」で、いじめられたことはなかった。むしろメディアに背負わされた逆境という、ありきたりなストーリーに反感を覚えていたという。
「野球なんてやめてしまえ」
’65年、広島カープに入団。ルーキーイヤーのシーズンオフ、衣笠は「プロ野球選手になったことを実感」するため、高級外車「フォード・ギャラクシー」を買い、チームメイトの大顰蹙を買った。ほとんどの選手が国産車を所有していた時代に、ルーキーが外車を乗り回すなど言語道断だった。2年目には気を取り直して国産車の「スカイライン2000GT」を買ったが、この車で事故を起こした。イキがった態度が野球に表れたのか、成績も上がらない。
のちにカープの伝説となる衣笠は、最初から尊敬されるような選手だったわけではなかった。それどころか、完全な「問題児」としてキャリアをスタートさせたのだ。担当スカウトの木庭教からは、「このままじゃクビだ」と脅された。
(※引用元 現代ビジネス)