「戦力外通告ってすごくネガティブな印象があるじゃないですか。でもまだ自分は31歳。人生の3分の1が終わっただけです。野球を辞めることになったら転職するだけの話で、そんなにネガティブなものじゃない」
プロ3年目の’17年に15勝を挙げて広島東洋カープの連覇に貢献した薮田和樹(31)は、それから6年が過ぎた昨季終了後に戦力外通告を受けた。
トライアウトを受験すると、今季からイースタン・リーグに新規参入する「オイシックス新潟アルビレックス」(以下、新潟)からすぐにオファーを受けた。海外の球団からも誘われたが、「結果を残してNPB12球団に戻れたら、戦力外になった選手たちを勇気づけられる」と新潟入りを即決した。
「奥さん(モデルのKaruna)は『いろんな環境で野球ができるチャンス』と言ってくれた。単身で新潟に行くことになると思いますが、彼女も仕事に戻れるようになる。今までと違った形でサポートしてくれると思います」
学生時代は無名だった。岡山理大附高では右肘を疲労骨折するなど甲子園出場はなく、亜細亜大学でも4年間でリーグ戦登板はわずか2試合。それでも、当時タクシー運転手をしていた母親がたまたま乗車した広島の松田元(はじめ)オーナーに息子を推薦したことをきっかけに才能が目に留まり、’14年ドラフト2位で入団した。
「2年先輩に東浜(巨(なお))さん(33・ソフトバンク)、1年上に(九里)亜蓮さん(32・広島)、同期に山﨑康晃(31・DeNA)がいて、彼らより実績はなかった。ただ能力的に劣るとは思わなかったです」
入団2年目の’16年終盤から先発に回って3勝。翌’17年に覚醒のときを迎えた。
ケガ続きだった高校時代、肘の痛みを感じない投げ方を模索して編み出したテイクバックが小さい独特のフォームから投じる150㎞/h台半ばの直球がうなりを上げた。そこにカットボールやツーシームなどの変化球を織り交ぜ、打者のバットの芯を外して、5月30日西武戦から6試合連続勝利。巨人・菅野智之(34)やオリックス・金子千尋(40、現・日本ハム二軍投手コーチ)ら当時の球界を代表するエースたちにも投げ勝った。15勝3敗、実に勝率.833と最高勝率のタイトルを獲得。侍ジャパンにも選ばれた。
「タイトルを獲れたことはすごく自信になった。この投球を維持できたら今後も絶対に勝てる、と欲が出てきました」
だが、まぶしすぎるほどの’17年の輝きがその後の野球人生の陰を濃くした。翌’18年のオープン戦が始まった頃、練習中に左ひざと背中に違和感を覚えた。
「強度が高いトレーニングをすると痛みが出て……。投球時の踏み込みを大事にしていましたが、そこに不安を感じるようになって、思ったところにボールが行かなくなってしまった」
開幕から先発を任されたが2試合で15四死球と大乱調。先発失格の烙印を押され、開幕から約1ヵ月後の5月頭に降格。二軍で7勝0敗の結果を残すも、5月以降、一軍での登板は2試合にとどまった。
「あの年がスター選手になれるかどうかの境目だったと思う。球の出力は前の年と変わっていなかったし、筋肉量は増えていた。ファームで周りから『次に一軍に上がるのは薮田』と言われても、声がかからない。勝敗や防御率などではなく、フォアボールの数で見られるようになっていたのです。当時は『使う側の問題だろう』と思っていました」
結果を求めて、直球中心の組み立てから、カットボールの割合を増やすなど試行錯誤した。しかし――。タイトルを獲得した後の6年間で4勝。薮田はチーム内のライバルのみならず、タイトルを獲った自分の″残像″とも戦っていた。
「あの年があったから9年間も球団に面倒を見てもらえたのだと思います。でも’17年以降、タイトルを獲ったときの投球を基準に見られるようになった。その難しさも、すごくありました」
プロ最終年の’23年は自ら一番適性を感じていた先発に働き場所がなく、リリーフで3試合。若手優先で一軍登板のチャンスが回っているように感じたが、若き日の自分もそうだったと納得できた。
新潟では選手として輝きを取り戻すだけでなく、球界の裾野を広げる活動にも着手する。個人スポンサーを募り、SNSを利用した広告活動などを通してこれまで野球界と縁がなかった業種に支援してもらえるように働きかける。新規参入球団だからこそ可能性を広げられる。
「今、金銭面の不安を理由に、野球をあきらめる人が多いと感じます。各球団の規模が大きくなり、スポンサーの支援が厚くなれば、野球に戻ってくる選手も増えるのではないかと思います」
古巣・広島を倒して「12球団から勝利を挙げる」という新たな目標もできた。戦力外通告は新たな人生を切り開く出発点――。それを証明するために、薮田が第二の人生を力強く歩んでいく。
(※引用元 FRIDAYデジタル)