僕は四番として黒田さんはエースとして
黒田さんと話をするようになったのは、3年目の終わりくらいだったと思います。2002年オフに、金本知憲さんが阪神にFAで移籍し、僕は代わりの四番として、01年に12勝を挙げていた黒田さんは、エースとして期待されていました。2人でカープを支えていかなきゃいけないという強い思いがありました。
ただ、その後、お互い、なかなか思うような結果が出せず、苦しい時期もありました。そのうち黒田さんが食事に誘ってくださるようになったのですが、愚痴を言い合ったわけではありません。カープを強くするためにはどうしたらいいのかと、いつも熱く語り合いました。
黒田さんで覚えているのは、05年の終盤です。優勝の可能性なんてとうに消えていました。完全に消化試合となった神宮のヤクルト戦(10月7日)ですが、私には燃える理由がありました。黒田さんの最多勝がかかっていたのです。
先発は大竹寛でしたが、同点の5回に黒田さんが登板。互いに2点ずつ取った8回表、一死一、二塁で、四番の僕に打順が回ってきました。ピッチャーはサイドハンドの吉川昌宏君です。
思い切りバットを振り抜くと、ライト線に2点タイムリーの三塁打!お客さんも少ないし、さほど沸いてもいないのに、三塁に滑った後、大きくガッツポーズをしました。三塁ベンチ前でキャッチボールをしていた黒田さんも、こっちを向いて右手を上げてくれた。あのときは間違いなく、「自分のため」じゃなく、「黒田さんのため」に打ちました。
その後もそうですが、僕は自分のためにと思ってやるより、誰かのためにと思ってやるほうが力が出ます。
ただ、あのときは「黒田さんのため」と思ってはいましたが、逆に考えたら、黒田さんという存在が僕に打たせてくれたといってもいいのかもしれません。黒田さんが僕に力をくれ、燃えさせてくれ、それが結果につながった。これがチーム全体でできていたのが、強くなってからのカープだと思います。
この試合の勝利投手となった黒田さんは、阪神の下柳剛さんとタイながら最多勝のタイトルも手にしました。僕にとっても初めて打率3割に達し(.305)、43本塁打でホームラン王になった年です。
(※引用元 週刊ベースボール)