プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。
走塁に抜群の安定感を発揮した山崎
1975年に悲願の初優勝、79年に初の日本一を成し遂げると、その勢いのままリーグ連覇、2年連続で日本一に。84年にも日本一に輝き、その後は86年と91年にもリーグ優勝。そんな広島の黄金時代には、攻守走の大きな3本の柱があった。まずは、山本浩二、衣笠祥雄の“YK砲”。ただ、山本は86年の西武との日本シリーズを最後に引退、衣笠も翌87年の最終戦まで連続出場を続けてバットを置いている。続いて、北別府学、大野豊らを中心とした投手王国。特に84年の日本一、86年のリーグ優勝は、投手陣の活躍が印象に残る歓喜だった。
そして最後に、機動力野球。その先陣を切った盗塁王3度の高橋慶彦については、すでに紹介した。ただ、高橋1人だけでは、さすがにチームの機動力野球は成立しない。高橋に続いて、同じくスイッチヒッターとして頭角を現したのが山崎隆造。80年代の後半に入ると、やはりスイッチの正田耕三が台頭。一番から三番まで韋駄天のスイッチヒッターがズラリと並んだ87年、88年が機動力野球の最盛期といえるだろう。
山崎はドラフト1位で77年に広島へ。古葉竹識監督の指示で翌78年にはスイッチに挑戦。その後は着実に出場機会を増やし、ポジションも内野から外野へ転向する。だが、81年の日本ハムとのオープン戦(熊本藤崎台)で、左翼の守備中にファウルボールを追ってフェンスに激突し、右ヒザの皿を複雑骨折。そのまま熊本市内の病院で手術を受け、1年を棒に振った。
それでも82年には復活。背番号1となった翌83年には高橋に続く二番打者としてレギュラーに定着して、初めて規定打席にも到達、以降3年連続で打率3割も突破する。盗塁も以降5年連続で20盗塁を超え、自己最多は84年の39盗塁だが、盗塁刺が2ケタとなったシーズンは1度もない。通算盗塁成功率.788の安定感は、機動力野球の新たな象徴となっていく。
走塁の判断力は故障離脱の前からで、「山崎を代走に使うと必ずホームインする」という神話もあったほど。復帰後も痛みは残り、試合が終わると熱を帯びていることもあったが、果敢な走塁を躊躇しなかった。“作られた”左打席も抜群の安定感。左打席での好成績は、右打席へも好影響を与えた。甘いマスクで派手な印象もあった背番号2の高橋と、「地味」「玄人ごのみ」と評される背番号1の山崎とのコンビも絶妙。
「自分には二番のほうが合っていた」(山崎)
というが、打順も84年は一番が最も多く、85年には木下富雄を二番に挟み、山崎が一番、高橋が三番というパターンも多かった。
正田は本塁打ゼロでスイッチ初の首位打者に
正田はドラフト2位で85年に広島へ。やはり古葉監督に勧められ、その1年目の終盤にはスイッチヒッターに挑戦。内田順三コーチとの猛特訓を経て、阿南準郎監督が就任した翌86年の中盤に二塁の定位置をつかんで、高橋と二遊間を形成して優勝に貢献した。
「阿南監督を胴上げしたことが、野球人生で最高の思い出。野球やっててよかったなぁ、と。そう思えたのは最初で最後です」(正田)
続く87年には山崎と高橋に挟まる二番打者として初めて規定打席にも到達する。つなぎの二番として29犠打もマークしたが、巧みなセーフティーバントも武器となり、打率.333で巨人の篠塚利夫と首位打者のタイトルを分け合った。スイッチヒッターの首位打者、そして本塁打ゼロの首位打者は、ともにプロ野球で初めてだ。
リードオフマンを務めた翌88年には左打席での打率も向上して、自己最高の打率.340で2年連続、単独で首位打者に輝いている。続く89年は首位打者こそ逃したが、10月15日の中日戦(広島市民)でのゲーム6盗塁を含む自己最多の34盗塁で初の盗塁王。守っても87年から5年連続ゴールデン・グラブなど、攻守走すべてでチームを支え続けた。
山崎はVイヤーの91年には選手会長としてナインを鼓舞し、93年オフに現役引退。正田はコーチ兼任となった98年に、若手の出番を増やすために自ら引退を申し入れた。(写真=BBM)
(※引用元 週刊ベースボール)