歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。
13年目の戦力外
いわゆる“ストーブリーグ”の季節は過ぎたが、まだ“ストーブ”を仕舞えない日が続いているような2020年。ペナントレースのない冬の時季、プロ野球選手の戦力外は、ある種の風物詩ともいえるかもしれない。芽が出ないまま引退へと追い込まれる選手もいれば、たとえチームの功労者であったとしても、退団を余儀なくされることもある。近年は引退を明言しない選手も増えてきて、独立リーグへ転じることも選択肢として確立されつつあるが、20世紀の選手にとっては、獲得に名乗りを上げる球団が現れないということは、引退と同義だったと思っていいだろう。
逆に言えば、どんなにチームから不要とされても、チームが獲得を希望しさえすれば、現役の継続が可能であり、現役を続行するためには、それが唯一の選択肢でもあった。捨てる神あれば拾う神あり。あとは、拾う神の恩に報いるだけなのだが、それもまた簡単ではない。
1996年オフ。広島の黄金時代でもあった80年代に“赤ヘルの若大将”と騒がれた小早川毅彦が戦力外通告を受ける。1年目の84年から一塁の定位置をつかんで優勝、日本一に貢献し、新人王に。当時の広島では貴重な左の強打者は地元の出身でもあり、一気にファンの人気を集めていく。87年には法大の先輩でもある巨人の江川卓に引退を決意させたといわれる逆転サヨナラ弾もあった。89年には初めて打率3割を突破。だが、90年代に入ると、若手の台頭もあって出場機会を減らしていく。
その96年は一軍での出場が8試合にとどまっていた。球団は評論家への道筋を考えてくれていたが、小早川はヤクルトへの移籍を希望。90年代に入って失速していた広島の一方で、ヤクルトは野村克也監督の“ID野球”で黄金時代を迎えていた。小早川は、その“ID野球”に興味があったという。ヤクルトも契約に合意。かつての“赤ヘルの若大将”は、ツバメのベテランとして再出発を図る。
翌97年。優勝候補の筆頭は長嶋茂雄監督の率いる巨人だった。96年は広島が首位を走っていたが、11.5ゲーム差からの猛追で奇跡の逆転優勝。長嶋監督が連呼した「メークドラマ」が流行語大賞にも選ばれたシーズンだった。ヤクルトの開幕戦は、その巨人が相手。巨人の開幕投手は、それまで開幕戦4連勝、3年連続で完封している斎藤雅樹だった。さらに、その斎藤に96年のヤクルトは0勝6敗。最多勝、最優秀防御率の投手2冠に輝いた斎藤のタイトル獲得をアシストしたような形になる。まさに天敵だ。その一方で、それまで広島にいた小早川には、ヤクルトのナインが抱いているような斎藤への苦手意識はなかった。
たかが3点、されど3点
そして、4月4日の開幕戦(東京ドーム)。広島を戦力外になった男は、ヤクルトの五番打者として先発メンバーに名を連ねる。2回表の先頭打者として迎えた第1打席、初球だった。もともと打撃は積極的で。ファーストストライクからのフルスイングが持ち味だったが、そんな“大好物”はバックスクリーン右へのソロ本塁打となる。
第2打席は4回表二死。カウントが3ボール1ストライクとなると、野村監督がミーティングで「斎藤は3ボール1ストライクから必ずカーブを投げてくる」と言っていたことを思い出す。これが的中。内角高めのカーブは右翼席の中段へのソロとなった。6回表二死の第3打席では、斎藤は2球ともシンカーを投げてきて、ボールに。もう攻めの投球はないと確信した小早川は迷わずシンカーを待った。そして3球目のシンカーを右翼席の前列へ運んで、ソロ3連弾。わずか3点に過ぎないが、巨人には痛恨の3点となり、そのまま4位でシーズンを終える。
開幕戦に勝ったヤクルトは首位を独走して2年ぶりリーグ優勝。夏場には横浜の猛追があったが、ヤクルトは9月2日の天王山で完勝。この試合については機会を改めるが、このときも小早川は1点リードの7回表一死から右中間スタンドへのダメ押しの2ランを放ち、珍しくガッツポーズを見せた。(文=犬企画マンホール、写真=BBM)
(※引用元 週刊ベースボール)