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カープ寮に父と入居、安仁屋宗八が振り返る「沖縄の星」としての歩み

2021年1月14日

カープ寮に父と入居、安仁屋宗八が振り返る「沖縄の星」としての歩み

令和のいま、あえて個性豊かな「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。14人目は、沖縄出身者として初めてプロ野球選手となり、通算119勝、防御率タイトルも獲得するなど球界に大きな足跡を残した安仁屋宗八(あにや そうはち)さんを取り上げる。

近年では広島東洋カープの”レジェンド”として、その独特な風貌とともにファンに親しまれている安仁屋さんだが、初モノづくしのプロ入り当時は不安や困難がたくさんあったという。激動の昭和史のなか、沖縄球界のパイオニアはどのようにしてその地位を確立していったのか。

安仁屋宗八さんに会いに行ったのは2008年11月。この年、広島市民球場がカープのホームグラウンドとしての役割を終えた。完成は1957年だから、半世紀の歴史に終止符が打たれたことになる。必然的に、市民球場の思い出をカープOBの方にうかがいたい、と考えたとき、思い当たったのが安仁屋さんだった。

沖縄出身初のプロ野球選手として知られる安仁屋さんは、沖縄高(現・沖縄尚学高)、社会人の琉球煙草でエースとして活躍し、64年に広島に入団。1年目から一軍で結果を残して[沖縄の星]と呼ばれ、長く投手陣を支えたが、74年オフに阪神に移籍。皮肉にも翌75年、広島は球団初のリーグ優勝を果たす。

一方、75年の安仁屋さんは阪神で66試合に登板し、12勝5敗7セーブという好成績を残す。すべてリリーフだったが、当時、1回限定起用はまずなかったから、140回2/3を投げて規定投球回到達。1.91という数字で最優秀防御率のタイトルを獲得し、カムバック賞にも輝いた。

翌76年も10勝10セーブを挙げた安仁屋さんだったが、登板数が激減した79年のオフに引退を勧告される。それでも、その後に金銭トレードで古巣復帰が決まり、80年からの2年間をカープで過ごして現役を全うした。

いったんチームを離れ、再び戻った安仁屋さん。もしかしたら、カープひと筋の選手以上にホームグラウンドへの愛着が強いのでは? そう思い立って広島行きを決めた後、広島市民球場で〈カープOBオールスターゲーム〉が開催されることを知った。

開催を伝える記事には、〈先発は安仁屋宗八氏と外木場義郎氏〉と記されていた。OB戦とはいえ、市民球場のマウンドで投げる安仁屋さんの姿を見られるとはうれしい。僕は06年に外木場(そとこば)さんにも取材していたので、二重、三重のうれしさだった。

OB戦の開催は12月6日。1ヵ月後を楽しみにしつつ、広島駅に直結するホテルのラウンジで朝10時、安仁屋さんと待ち合わせた。グレーのジャケットの下は黒い細身のズボンで足取りは軽く、想像以上に引き締まった体型は若々しい。

濛々(もうもう)とした髭と頭髪の白さには64歳(当時)という年齢を感じるものの、三日月型の眉は黒く太く、現役時代の写真で見た印象と変わらない。広い瞼(まぶた)の下の目は真ん丸で大きいが、威圧されるような眼差しではない。僕は落ち着いた気持ちで取材の主旨を説明した。

「市民球場の思い出はたくさんありますけど、僕はもともと、広島には縁があるんです。まずは高校野球から。広島の広陵に甲子園で負けたんです。で、(プロ入りの際も)広島のスカウトの人が真っ先に沖縄に飛んで来てくれた、いうのがありますから」

微(かす)かにしゃがれて張りがあり、湿り気もある声が、沖縄方言特有のアクセントとあいまって耳に心地よく響く。ただ、さまざまな文献資料に載っていたインタビュー記事のようなくだけた口調ではなく、丁寧語なのは意外だった。

「当時、沖縄いうのはパスポートが要りましたよね。あの時代、パスポート持っとる人が少なくて、スカウトの人もほとんど持ってなかったんじゃないですかね。それがたまたま、広島の場合、平山智(さとし)さんいう人が日系二世で、パスポートを持ってたんですよ」

戦後の沖縄は72年の返還まで米軍統治下にあり、日本ではなく「外国」だった。他球団も安仁屋さんに注目するなか、広島には先を越せるだけの人材がいたのだ。もっとも、平山智は本職のスカウトではなく現役の外野手だったから、球団がいかに安仁屋さんを必要としていたか、うかがい知れる。きっかけは63年、都市対抗野球大会での好投だったという。

「僕は大会では大分鉄道管理局に補強されたんですね。琉球煙草から。そのとき、キャッチャーの人にシュートを教えてもらったんです。『お前の投げ方、スリークォーターだから、ちょっとこうして、シュート投げてみんかあ?』言われて」

目の前でゆっくりと、右腕が振り下ろされる。掌(てのひら)をこちらに向けて、ひねりが加えられた。このシュートは安仁屋さんにとって、最大の武器となったボールだった。

「都市対抗でこのシュートを投げて、4本ぐらいバット折ったですかね。これがプロの、スカウトの目に留まったと思うんですよね」

プロ入りのみならず都市対抗出場も、沖縄の選手では安仁屋さんが初だった。当時の沖縄では「職域野球」と呼ばれた社会人野球が盛んだったが、南九州予選での敗退が続いていた。本土との野球交流が少ない上に、60年に奥武山(おうのやま)球場ができるまで本格的な野球場がなかったこともレベルの差につながっていた、と安仁屋さんは言う。

「いちばんの原因は球場ですよね。僕ら、高校2年までは、フェンスのないグラウンドで野球やってました。校庭で外野にライン引いて、ラインを飛び越えたらホームラン、ゴロで抜けたらエンタイトル・ツーベースという形で。

だから、僕らの4期前ですか、首里高校が甲子園に出たときに、監督がたらいにピンポン玉を転がして、クッションボールの練習をした、いう話を聞いたことあります。球場の模型じゃないですけど、たらいをフェンスに見立てたんですね。はっはっは」

首里高は58年、沖縄から初めて夏の甲子園、全国高校野球選手権大会に出場を果たしたことで有名だ。ただし、当時の制度における”自力”で出場したのは62年、安仁屋さんがエースの沖縄高が初だった。

首里高が出場した58年は第40回の記念大会。現在と同様、沖縄を含む全都道府県の代表が出場できた。が、通常の年は各地区大会の優勝校に限られ、沖縄の場合、当初は鹿児島、宮崎、大分と東九州大会を戦い、60年以降は宮崎と南九州代表を争った。

そのなかで62年の沖縄高は、宮崎代表に勝って甲子園出場を決めた。それゆえに初の”自力”とされており、このあたりも安仁屋さんが[沖縄の星]と呼ばれた所以(ゆえん)だと思う。すなわち甲子園、都市対抗、プロ野球、すべて安仁屋さんが沖縄初ということになる。

「何でか、初が多いですよね。でも僕ら、甲子園は夢のまた夢でしたから。宮崎の優勝校と戦ったときも、たまたま”まぐれ”で勝ったようなもんです。だいたい、僕もその、チームを引っ張るようなエースじゃなかったですから。

バッタバッタ三振取って、というピッチャーじゃなくて、打たして取るタイプだっただけに、いいバックに恵まれました。打ってくれるし、守りがよかったし。それと、いい監督に出会えたのもよかった、思うんです。僕らが入った年に、3年計画でチームを強くしようとして」

監督が先を見据えてチームづくりできたのも、高校入学時から安仁屋さんの投げる能力に光るものがあり、注目していたからではなかろうか。

「いやいや、僕は中学でも二番手、エースじゃなかったです。高校でもまさかピッチャーするとは思ってない。たまたまフリー打撃に投げたらコントロールがよかった、いうことで、監督がそこを見て、『ピッチングしてみろ』と。

それで2年生の新人戦のとき、先輩ピッチャーが押し出し、押し出しで、『お前、投げい』言われて、いきなり投げたら、その大会優勝。何か縁があって、ツキもあったんでしょうね。それから一人で投げ抜いたですけど、やっぱ、よく守ってもらった。チームに感謝してます」

一気に才能が開花したように感じるが、あくまでも”他力”が強調される。それでも、自身で成長を実感したときはあったはず。話は市民球場の思い出から逸れているが、安仁屋さんの野球の原点は聞いておきたい。いつ頃から「投手になりたい」という気持ちが芽生えたのだろう。

「別に、なりたい、とかいうのはなかったですよ。高校の監督にやらしてもらった、いう感じで。ただ、なったからにはね、練習は厳しかったですよ。まい〜にち、20キロ以上、二番手ピッチャーと一緒に走らされて」

20キロ……。ハーフマラソンを毎日、走れるだけの体力がまずあったのだ。

「ときにはもっと走ったこともあります。もう、投げたあとはとにかく走る。だからまあ、ときどきね、キュウリ畑へ入ったり、サトウキビ畑に入ったり。ふふふ。のどが渇いてね、ごちそうになりました。二人ですから、誰もわからないですから。それは高校のときの楽しみのひとつでね。えっへっへ」

「サトウキビ畑」と聞いて、いたずらっぽく笑う顔を見ていたら、これまで現地や映像で見てきた沖縄の風景が頭のなかで明滅した。と同時に、取材のための資料として読んだ『琉球ボーイズ』(市田実・著)という本が想起された。この本には〈米軍統治下の沖縄に大リーガーを本気にさせた男たちがいた〉という副題が付き、次のように背景が説明されている。

──62年、日米野球で来日したデトロイト・タイガースが在沖米軍を慰問するため、親善試合を行った。米軍には、マイナーでプレー経験のある選手が兵役義務のため少なからず駐留しており、選抜チームを編成できた。そのチームのなかに、職域野球の4人の選手が参加していた──

その知られざる顛末(てんまつ)を描いたノンフィクション作品に、安仁屋さんも登場する。4人のうち岸本繁夫という投手が、安仁屋さんにとって大事な人だったからだ。僕は持参した本を差し出しながらその投手のことを尋ねた。

「ああ、岸本さんね。沖縄じゃあ、ナンバーワンピッチャーですよ。きれいなオーバースローで、顔もよかったし、すごく憧(あこが)れました。琉球石油のエースでしたから、僕は琉球煙草に入ったとき、投げ合うのが夢でした。それは実現しなかったけど、岸本さんがいたから今がある、思います。感謝してます」

憧れの人との投げ合いはできなかったが、沖縄高時代、琉球石油との練習試合が行なわれていたという。レベルの高い社会人と戦える環境にあったことは、安仁屋さんが上を目指していく上で大きかったはずだ。

「かもしれないですね。実力的には全然違いましたから。でも、憧れる人がいる、夢を持つ、いうのは目標になるからええことですね。プロ入ってもそうだし。僕は巨人ファンだったから、長嶋(茂雄)さん、王(貞治)さんから三振取りたい、っていうのが夢でした。ピッチャーでは藤田元司さん。そういう夢や憧れを持って対戦する機会があると、自然に燃えますよね」

図らずもプロ入りの話へとつながった。憧れを抱きつつ飛び込んだ世界は、安仁屋さんの目にどう映ったのだろうか。

「僕、九州の野手でナンバーワンといわれた三池工業の苑田聡彦(そのだ としひこ)いう選手と一緒に入団して、まず第一、監督の白石勝巳さんに挨拶に行ったんです。市民球場のオーナー室で待ってる、いうことで。そこで白石さんが第一声、苑田見て、『お前、エエ体しとるなあ』。そして、僕見て、『お前、ホントにこの体で野球やっとったんか?』って言われたんですよ」

大きな目が真ん丸に見開かれていた。そのとき、安仁屋さんの体重は56キロしかなかったそうだが、それにしても監督の言葉、新人にはキツ過ぎると思う。

「見た感じは細かったと思います。それで『ホントに野球できるんか?』とも言われた。それが市民球場の、最初の思い出になるんですかね」

市民球場の、思い出。決して、いい思い出ではないですね、と言いかけて、安仁屋さんがここまで取材の主旨を外さないでいたことに僕は驚いた。

「だから市民球場に初めて来て、グラウンドも見ないうちに、俺は1年も持たないんじゃないか、いう不安が先に立ちました。実際、親父には『1年で帰るかもしらんから』と。そのぐらいの、覚悟はしたですね」

監督の言葉にショックを受けながらも覚悟を決めた安仁屋さんは、あらためて、プロで成功するためには練習するしかないんだ、と思い直す。

「とにかく走りましたよ。細いけど、体力的には自信ありましたから。そのぶん、コーチの藤村隆男さんにはものすごい鍛えられましたけどね。コーチのこと、クソオヤジ! 死にゃあいいのに、と思うほどでした。もちろん、一軍で結果が出たときには逆に感謝したし、藤村さんの練習の厳しさに耐えられたから今がある。いちばん感謝してます」

藤村コーチが課す練習の厳しさについては、外木場さんも述懐していた。練習中に倒れる選手が出るほど、走ることに重点を置いた練習だったという。

「ただ、練習には耐えられても、僕は本土に来て、いちばんの心配は言葉でした。沖縄では方言しか使ってないし、標準語いうの使ってなかったですから、人と話すのが苦手で。周りの人とうまくやっていけるかなあと。で、その次に心配だったのが食事なんですよね。僕はすごく好き嫌いがあって、刺身はまったくダメで、生野菜はダメだったし。

お肉は何でも食べたけど、半生で血が見えたりしたらもうダメだし。目玉焼きもよう食べんかったですから。半煮えで。こっちの人って、ご飯に卵の黄身、溶いて食べるじゃないですか。悪いけど、よう、あんなの食べるなあ、思います。全部、火を通さんとダメ」

安仁屋さん自身の好き嫌い、というよりも、沖縄特有の食習慣も関係していたのかもしれない。

「あの、沖縄にはチャンプルーいうのがあるじゃないですか。野菜でも炒めて。そういうのがメインなんです。それで当時、遠征の食事は鍋物が多かったから、しゃぶしゃぶのときなんか、刺身を鍋に突っ込んでしゃぶしゃぶしたりね。えっへっへ。食べんと体力が持たないですから、何か工夫して食べよう、いうことで」

以前に会いに行ったウォーリー与那嶺さんも、ハワイ出身の二世選手だけに「刺身はダメ」と言っていた。そうした生活面の苦労に耐えて巨人で活躍できたのは、自分のあとに来る助っ人たちの道が開かれるように、との思いがあったからという。

言葉や食事の面で苦労しながら、安仁屋さんはプロ1年目から一軍で活躍している。特に食べることに工夫したのは、沖縄初のプロ野球選手として、まず自分が成功しなければ後輩たちにつながらない、という思いがあったからなのだろうか。

「それは結果が出たあとに言えることですよね。当時はそこまで考える余裕はなかった。周りの先輩方も、沖縄から初めて来たいうことで、何かと気を遣ってくれてたと思うんです。だいたいオーナーもね、ウチの親父を1ヵ月近く、合宿所に泊めてくれたの。前例はなかったらしいですよ。で、それこそ食事はね、親父がいつも卵焼き作ってくれて」

なんと! 親御さんが息子の世話をするために選手寮で一緒に生活するなど、他球団でもありえないだろう。それが、オーナーまで動かしたとは、ただ単に一人の新人がプロ入りするのとは違って、何か大がかりな印象がある。不意に、当時の沖縄と本土との大きな隔たりが感じられた。やはり、どちらから見ても遠い「外国」だったのか。

「僕ら沖縄にいて、プロ野球は巨人しか知らない。そういう意味では遠い世界ですよね。テレビは十軒に一軒あるかないか、いう時代でしたし、生中継はラジオの巨人戦だけ、それもときどきしか聴けなかった。みんな巨人ファンになりますよね。

それでやっぱ、親孝行しよう、沖縄の人に見てもらおう、思ったら、巨人戦に投げないかんのですね。放送はそれしかないから。だからどうしても、巨人戦に投げるのが目標になります。ただ、勝てるとかいう問題じゃなくて、一回登板したらテレビ映るかなあ、というぐらいで」

安仁屋さんは、まさに巨人戦でプロ初勝利を挙げている。プロ1年目の64年6月14日、わずか4安打での初完投勝利だった。文献資料によれば、安仁屋さんの巨人戦初先発の噂を聞きつけ、沖縄で初めてプロ野球がテレビで生中継されたという。つまりはオーナー以下、広島球団のみならず、郷土の沖縄そのものも動かす存在だったのだ。

「だから僕、余裕はなかったですけど、沖縄を代表してやっている、いう気持ちはありました。で、その初勝利もね、市民球場。これはいいほうの思い出ですね。はっはっは」

(※引用元 web Sportiva

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