「優勝パレードをしたい」
〈耐えて勝つ〉を座右の銘に、厳しい指導で広島東洋カープを球団創設以来初のリーグ優勝に導いた古葉竹識(たけし)さん。優しさも持ち合わせ、若い選手への気配りも忘れなかったという名将を偲ぶ。
セ・リーグの“お荷物球団”といわれた広島東洋カープを1975年、球団創設以来初のリーグ優勝に導いた立役者が、当時監督を務めた古葉竹識さんである。就任1年目の快挙だった。
「優勝パレードをしたい」
古葉さんが球団オーナーにそう持ちかけ実現。沿道の30万人を熱狂させた。
79、80、84年と3度日本一に輝き、「赤ヘル軍団」の黄金期を築いた。躍進を支えたのは猛練習だ。元捕手の水沼四郎さんが語る。
「捕手はたった5メートルの距離から約1時間ノックされました。あざだらけになり、立てなくなるほどでした」
試合中も厳しかった。水沼さんがリードでヘマをすると古葉さんの“足が飛んで”きたという。投手だった安仁屋(あにや)宗八さんによると、
「昔の広島市民球場のベンチは低い位置にあるので、蹴っても自陣以外の人には見えにくい。衣笠祥雄、山本浩二以外はみな蹴られたんじゃないかな(笑)」
〈耐えて勝つ〉が古葉さんの座右の銘だが、こうした厳しい練習に耐えて勝つチームに育て上げた。
長嶋茂雄と首位打者争い
ただ、厳しいのは球場内だけで、外に出れば優しかったと安仁屋さんは話す。
「遠征先では試合後、監督、選手が一緒に食事するんですが、打たれた投手、打てなかった野手にも古葉さんはビールを勧めてました」
若い選手にも気配りした。スポーツライターの赤坂英一さんが元捕手の達川光男さんから聞いた話では、
「シーズン終盤の消化試合になると、2軍から上がってきた選手に『おまえ給料なんぼだ』と質したというんです。安い給料の選手には、出場機会をつくって1軍出場手当が出るようにしてあげたようです」
鬼と仏の心で選手を掌握した古葉さんは36年、熊本県に生まれた。済々黌(せいせいこう)高校から専修大学へ。同大学中退後、日鉄二瀬(ふたせ)を経て58年に広島カープ入団。
63年には長嶋茂雄と首位打者争いを演じ、足も速く盗塁王2回。70年にトレードで南海に入るが、当時の監督は就任したばかりの野村克也さん。選手、コーチとして2年ずつ在籍する間に、野村さんは古葉さんの指導者としての手腕を見抜いていた。古葉さんの三男・隆明さんが語る。
「『お前、絶対にカープには戻さんぞ』と野村さんから言われたと父から聞きました。74年、専修大の先輩・森永勝也さんが広島の監督になり、請われて戻りますが、野村さんから学んだことは大きいと思います」
起用法に野村監督の影響
その象徴が高橋慶彦選手である。投手から野手に転向させ、足の速さを見抜いてスイッチヒッターとして育成した。安仁屋さんも水沼さんも、そうした起用法に野村さんの影響をみる。
85年に広島を勇退後、87年から横浜大洋ホエールズ(現DeNA)の監督になるが、晩年はアマチュア野球に力を注ぐ。隆明さんによれば、少年軟式野球国際交流協会の理事長に就任したのも、2004年の参議院選挙に出馬したのも、陰り気味の野球人気を再興させるためだったという。
最晩年は東京国際大学野球部監督として指揮を執った。08年に就任すると、わずか4年でリーグ戦を初制覇し、大学選手権でも4強に。隆明さんはこう言う。
「大部分の選手は就職します。時間を守れとか常識的なことしか言いませんが、部員が就職した会社から、野球部の後輩を来年も欲しいと言われると試合に勝つよりも嬉しそうでした」
安仁屋さんが今年春に古葉さんと話したとき、今年の広島カープOB会、来年3月のOB戦にも「絶対に行く」と答えていた。11月に体調を崩し入院したときも、心臓の調子を整えて1週間ほどで帰ってくる予定だった。だが亡くなる前日、隆明さんが病室に電話をすると、「お母さんによろしくね」。これが最期の言葉になった。11月12日、心不全のため逝去。享年85。知将がまた一人いなくなった。
(※引用元 デイリー新潮)