球団の資金力=チームの戦力だった時代
日本のプロ野球は1993年に導入されたドラフトの逆指名制度とFA制度によって、チームの戦力が球団の資金力に大きく左右されるようになった。
カネで有力選手に逃げられたチームは弱体化し、負けが嵩むことでファンが離れる。主催試合の観客が減り、テレビ中継の視聴率も下がれば球団の収入が落ち込み、それが一段と資金力を低下させる――こんな悪循環に陥ってしまうのだ。
FA選手の引き留めを行わないカープ
カープが1991年から四半世紀も優勝できなかったのは、まさにこうした負のスパイラルに嵌まってしまったからだった。
FA権の行使によって1994年の川口和久投手と1999年の江藤智内野手は共に巨人へ、2002年の金本知憲外野手と2007年の新井貴浩内野手は阪神へ、さらに新井と同じ2007年には黒田博樹投手も米大リーグ(MLB)へ去った。
ドラフトでは1998年に1位指名を決めていた地元広陵高校出身の二岡智宏内野手が巨人を逆指名。一方、外国人選手の争奪戦でも、2004年に強打の内野手だったアンディ・シーツが高額年俸を提示した阪神へ移籍する一幕があった。
主力選手が次々にライバル球団へ流出し、有望な新人にもそっぽを向かれたら、当然のことながらファンのフラストレーションは高じる。
「『どうして勝てんのか』という批判はまだしも、『ケチ』と言われることがつらかった」
当時を振り返って社長兼オーナーの松田元は苦笑する。
親会社を持たない唯一の球団
高額年俸を払いたくても払えなかったのだ。FA制度やドラフト逆指名で選手の人件費は跳ね上がったが、膨らみ続けた支出を惜しげもなく賄えたのは巨人、阪神、ソフトバンク(2004年までダイエー)など一部の球団に限られていた。
収益の逼迫は大半の球団に共通していたが、カープには他の11球団と異なる特殊事情があった。カープは親会社を持たない唯一の球団だからである。
株式会社広島東洋カープの筆頭株主は30%強を保有するマツダである。しかし、同社は毎年の有価証券報告書で「主要な持分法非適用会社」として広島東洋カープを挙げ、その理由を「小規模であり、全体として連結財務諸表に重要な影響を及ぼしていない」と明記している。
わざわざ注記事項に掲げているのは「大株主だが、親会社ではない。経営に口を挟まないが、信用保証もしない」(マツダ関係者)という明確な意思表示とみるのが正しい。
カープの正式名称が広島「東洋」カープのワケ
実質的な筆頭株主は松田家。一族の保有株式を合わせればマツダを上回る40%強になる。元の祖父である恒次や父の耕平が東洋工業とカープの社長を兼務していた時代には、両者の独立性はさほど問題にならなかった。
現在でも球団名に入っている「東洋」は言うまでもなく、マツダの旧社名「東洋工業」にちなんだもの。球団名に「東洋」が加えられたのは1967年。この年、東洋工業は新開発のロータリーエンジン「10A型」を搭載した初の量産車「コスモスポーツ」を発売し、市場で高い評価を受けたことは紹介した。
当時の東洋工業社長兼球団オーナーだった恒次は球団支援金の税務対策だけでなく、ロータリーエンジン搭載車の世界市場制覇と万年Bクラスのカープの飛躍への思いを重ね合わせ「広島東洋カープ」という球団名を考案した。
ただ、この「東洋」を球団名に入れる際、恒次は「カープを私する気はない」とくどいほど繰り返している。
1970年、恒次は悲願のカープ初優勝を見ることなく世を去るが、社長兼オーナーを引き継いだ長男の耕平の下で、山本浩二外野手や衣笠祥雄内野手を擁して「赤ヘル旋風」を巻き起こし、1975年にセントラル・リーグの頂点に立つ。
ただ、恒次のもう1つの夢だったロータリーエンジンは1973年の第4次中東戦争をきっかけに起きたオイルショック以降、燃費の悪さが弱点となり需要が急減。
東洋工業の業績は悪化し、その責任を問われて耕平が1977年12月に社長を退任したことは、『マツダとカープ』第6章で詳述した。
「45年連続黒字」は誇れることではない
東洋工業と松田家がたもとを分かったことは当然カープの経営基盤に影響する。
大企業の後ろ盾を失い、債務の保証など望むべくもなくなる。取引金融機関の視線は厳しくなり、単年度でも赤字を出せば即座に「経営危機」となる。
カープ球団は初優勝した1975年12月期から、新型コロナウイルスの感染拡大で主催試合の観客動員が4分の1弱に激減する直前の2019年12月期まで45年連続で黒字を続けてきた。
だが、オーナー兼社長の元に言わせれば、それは「黒字経営を続けなければ球団を維持できなかった」からだ。
官報などのデータをもとにカープの業績をたどると、1990年代半ばまで当期利益は概ね1億~2億円台だが、FAやドラフト逆指名が制度として浸透し、人件費の膨張に拍車が掛かった1999年以降、千万円台に低下している。巨人や阪神のように、先発メンバーに1億円プレーヤーを何人も並べる余裕などあるはずがなかった。
25年目にしてようやく芽が出た
「よそと違う方法を見つけなければといつも考えていた。広島のチームとして戦力を整えるためには、他球団は目を付けないけれども素質のある選手を見つけ、彼らを一人前に育てる。そうすればもう一度優勝できるチームが作れるんじゃないかと。ところが、それがうまくいかず、25年もかかってしまった」
2016年に四半世紀ぶりの優勝を決めた際、元は来し方をこう振り返っている。
その後、2018年までの3連覇を通じ、チームを支えてきたのは菊池涼介内野手や田中広輔内野手、鈴木誠也外野手、会沢翼捕手のほか、移籍した丸を含め、いずれも生え抜きの選手。菊池と田中を除けば高卒入団ばかりだ。元の「育てて勝つ」戦略は見事に実を結んだのである。
「カープ・アカデミー」という奇策
人材育成は国内ばかりではない。1990年にドミニカ共和国に開校した「アカデミー・オブ・ベースボール」(通称カープ・アカデミー)は当時球団オーナーだった耕平の発案である。
1988年、MLBのウインターミーティング(マイナーリーグを含めた全チームが年末に来季の運営や有力選手の去就などについて話し合う会合)に参加した際、耕平は「大リーグの宝の山は中南米にある」とカープ自前の選手養成所の建設を思いついた。
ただ「アイデアはおやじだったが、実現したのは自分」と言うように、実際に現地へ足を運び、国情の調査から建設地の選定まで具体化したのは当時取締役オーナー代行だった元の任務だった。
キューバ、ニカラグア、ホンジュラス…
進出先は最初からドミニカに決まっていたわけではない。当初の最有力候補地はキューバだった。国家評議会議長(国家元首)のフィデル・カストロ(1926~2016年)自らが大の野球好きであり、日本との関係も良好。しかし、ハードルは思った以上に高かった。
1989年のベルリンの壁崩壊で冷戦が終結しつつあったとはいえ、米国とはまだ断交状態。野球選手の亡命事件も相次ぎ、キューバ政府が神経を尖らせていたこともあり、やむなく断念した。
次の候補地として浮上していたニカラグアには元が自ら調査に赴いた。だが、現地を訪れてみると、10年以上続く内戦で国土は荒廃。当時の外相・宇野宗佑(1922~98年)の紹介状を持って訪ねたスポーツ担当大臣は軍服姿の将校で「わが国は現在戦争中であり、応じられない」とアカデミーの受け入れを拒否した。
この訪問の際、ニカラグア政府との交渉にかなりの時間を奪われ、そうこうしているうちに内戦の戦闘が激しくなり、治安状態が急速に悪化してしまう。
元は北の隣国ホンジュラスからメキシコへ移動する予定だったが、身の危険を感じたため、急きょ南のコスタリカへ命からがら脱出して事なきを得た。
ドミニカが選ばれた理由
最終的に進出を決めたドミニカも、かつてはニカラグアと同様に激しい内戦が繰り広げられたが、1960年から1996年まで断続的に3度大統領を務めたホアキン・バラゲール(1906~2002年)が「ドミニカの奇跡」と呼ばれた経済成長を実現。汚職が蔓延し、貧富の格差は大きかったが、中南米の中では比較的治安も良かった。
カープ・アカデミーは首都サントドミンゴから東へ約80キロのサンペドロ・デ・マコリスに8万坪(約26万4000平方メートル)の用地を確保し、約6億円を投じて建設された。運営費は年約1億円。
開校からの約30年間は決して順風満帆ではなかったが、2017年にサビエル・バティスタ外野手が、2018年にヘロニモ・フランスア投手がいずれも彗星のように登場してセ・リーグ連覇に貢献。アカデミーの成果がようやく脚光を浴びるようになった。
新スタジアムの戦略は大当たりした
こうしたカープの「育てて勝つ」戦略を後押しした要素として欠かせなかったのが2009年に完成したマツダスタジアムである。
観客の飛躍的な増加が選手のモチベーションを上げ、それが勝利にこだわる姿勢に結びついてきた。
1957年に完成した旧広島市民球場は市中心部に近い一等地にあったが、築50年を迎えようとしていた頃には老朽化が進み、集客にも支障をきたすようになっていた。
若い頃から何度も渡米してMLBの球場を数多く見て回った元は、広島の経済界や自治体が検討を重ねていた「ドーム球場」ではなく、屋根がなく開放感のある天然芝のグラウンドの試合を老若男女が楽しめる「ボールパーク」の実現を望んでいた。
観客の視線がグラウンドレベルになるように掘り下げた「砂かぶり席」や寝転んで観戦できる「寝ソベリア」など客席に工夫を凝らしたほか、チケットの席の種類にかかわらず、スタジアム内を一周できるコンコース(通路)を設置。
コンコースは大アーケードで知られる広島本通商店街の道路と同じ幅広サイズとし、試合の行方を見ながら歩けるのが特徴だ。
これらの仕掛けが話題を呼び、新たなファンを掘り起こし、旧市民球場時代にはそっぽを向いていた女性客を引きつけるようになった。
年間100万人前後で推移していた主催試合の観客動員はマツダスタジアム開設初年度の2009年には187万人に急増し、1度はFAで出て行った黒田と新井が戻ってきた2015年には200万人を突破。リーグ3連覇を果たした2018年は223万人に達している。
さらに、従来は広島県民や出身者が中心だったファン層が全国規模に広がっていった。2013年頃から、赤いレプリカユニホームを着て球場へ観戦に訪れる「カープ女子」が増え、とりわけ、神宮球場や東京ドーム、甲子園球場などで行われるビジター・ゲームではスタンドの半分近くが赤く染まっていることが珍しくなくなった。
2014年には「新語・流行語大賞」(「現代用語の基礎知識」選)で「カープ女子」がトップテンに入り、話題になった。
マツダの創業・松田家が作ったもう一つのブランド
かつてはオープン戦や交流戦、日本シリーズの相手としてさほど人気のなかったカープ戦のチケットの売れ行きが活発になり、それに伴ってパ・リーグ各球団のカープを見る目が変わった。
また、横浜スタジアムを買収したDeNAや北海道北広島市に新球場を建設する日本ハムの関係者がカープ詣でを繰り返し、「ボールパーク」の先進事例を学んだとされる。
元は慶応義塾大学商学部を卒業後、米国留学を経て1977年に東洋工業に入社したが、折悪しく父・耕平が同年末に社長退任を余儀なくされ、1982年に退社する。翌1983年に広島東洋カープに入社したが、当時は球団の会計処理なども杜撰で「会社の体を成していなかった」。
そんな職場で問題を1つ1つ取り除き、組織の整備を進めたのは、まだ30代そこそこの元だった。辞めてもらった職員もいる。「『あんな若造……』と思われただろうけど、仕方がなかった」と苦しんだ当時を振り返る。
2004年の「球界再編騒動」からコロナ禍に見舞われる直前の2019年まで、米大リーグに倣った経営の近代化が進んだ日本球界で「最も成功したオーナー」を選ぶとすれば「地方の貧乏球団」を「全国区の常勝球団」に変えた松田以外にない。
松田家は自動車の「マツダ」に加えて、野球の「カープ」という新しいブランドを確立したのである。
(※引用元 PRESIDENT)