初代監督は地元広島出身の石本秀一
2022年、広島はシーズン最終盤まで阪神、巨人と熾烈なCS争いを繰り広げたが、最終的には4年連続Bクラスとなる5位に終わった。3年間指揮を執った佐々岡真司監督は退任。2023年は新井貴浩新監督の下、巻き返しを目指す。
4年ぶりの指揮官交代となった広島だが、過去にはどのような監督がチームを率いてきたのだろうか。個性派ぞろいの歴代監督を振り返る。
プロ野球が2リーグに分立した1950年に創設された広島カープ。その初代監督には広島出身で広島商高の監督を務めた経験もあった石本秀一が就任した。石本自身は6球団目となるプロ野球での監督だったが、2リーグ分裂による選手不足もあり、初年度は最下位の8位。その後も資金不足に悩んだが、徐々に成績を上げ、53年に4位に入った。
なお、石本はシーズン途中に「総監督兼常務取締役」として球団運営に専念するため、監督を退任。助監督だった白石勝巳が選手兼任で監督に昇格している。白石は3年連続で4位と健闘するが、巨人・阪神・中日の三強の壁をなかなか崩すことができなかった。57年からは監督に専念するも、4年連続で5位。60年に球団初の勝ち越しを達成し、「チームの地固めは出来た」として退任した。
1961年、前年まで二軍監督を務めていた門前真佐人が監督に就任。だが、2年連続5位と成績は振るわず辞任した。後任として白石が監督に復帰する。64年に当時絶大な打撃力を誇った王貞治対策のため「王シフト」を編み出したが、チームは下位に低迷。65年に途中休養という形で、長谷川良平へ監督を交代した。
1966年、正式に監督に就任した長谷川は、初代監督の石本をヘッドコーチに招聘。補強は行わず、現有戦力アップによるチーム強化を掲げたが、1年目は4位に終わる。2年目の67年には近鉄から根本陸夫を参謀役に招いたが、4年ぶりの最下位に沈み、この年限りで退任した。
1968年、前年オフに球団名を「広島東洋カープ」に改め、新監督には根本が就任した。その根本はトレードで山内一弘を獲得し、選手には猛練習を課すなど改革を行い、球団創設以来初のAクラスとなる3位へと導く。69年は最下位に沈むも、70年、71年と2年連続の勝ち越しに成功。衣笠祥雄、山本浩二らの育成も並行し、後の黄金時代の礎を築いた。その後、72年にシーズン途中休養という形で監督を退いている。
古葉竹識が球団初のリーグ優勝、日本一達成
1973年、近鉄、大洋で監督を務めた別当薫を監督に招聘し、前年最下位からの巻き返しを図る。前半戦を2位で折り返し初優勝の機運も高まったが、後半戦に失速し、2年連続の最下位に。別当はこの年限りで退任となった。後任として二軍監督を務めていた森永勝也が昇格。しかし、チームはまたしても最下位に終わり、森永もわずか1年で監督を退任した。
1975年、前年に一軍打撃コーチを務めていたジョー・ルーツが監督に就任。日本球界初のメジャーリーグ出身監督としてチーム改革に乗り出す。帽子の色をそれまでの紺から赤に変更して後のチームの代名詞となる「赤ヘル」を生み出し、選手のコンバートや大型トレードなどを敢行した。
シーズンの戦いぶりにも期待が高まったが、4月27日の阪神戦(甲子園)において佐伯和司の投球判定を巡って猛抗議し、試合をボイコット。この時、重松良典球団代表が試合続行を指示したため、試合中の介入に不満を持ったルーツは4月30日に監督を辞任。指揮を執ったのはわずか15試合のみだった。
ルーツの後任には投手コーチだった野崎泰一が監督代行を4試合務めた後、古葉竹識がコーチから監督に昇格。突然の指揮官交代となったが、チームは快進撃を見せる。中日、阪神との熾烈な優勝争いの末、10月15日の巨人戦(後楽園)で球団創設25年目にして初優勝を達成した。初の日本シリーズでは4敗2分けで阪急に敗れている。
古葉は山本浩二、衣笠祥雄を中心選手に育て上げるとともに、機動力を生かした野球を推し進め、79年に2度目のリーグ制覇を達成。日本シリーズでは近鉄を4勝3敗で下し、悲願の日本一を成し遂げる。
その後85年まで11年にわたる長期政権を担い、リーグ優勝4回、日本一を3回達成。Bクラスはわずか2度で最下位は1度もなく、以降3代の監督にわたって続く黄金期の礎を築いた。なお、2022年現在、球団でリーグ優勝を達成した監督は4人いるが、日本一を成し遂げたのは古葉のみである。
阿南、山本と3代連続で優勝監督に
1986年、古葉監督の勇退を受け、阿南準郎が監督に就任した。当初は「山本浩二監督」誕生までの繋ぎ役と見られていたようだが、古葉の下で培ったチーム運営の手腕は確かなもので、1年目からリーグ優勝を達成。在任期間はわずか3年だったが、すべてAクラス入りし、88年に勇退した。その後も取締役育成部長や球団本部長など、球団の要職を歴任している。
1989年、選手として球団史上初の優勝に大きく貢献した山本浩二が監督に就任。1年目、2年目は2位だったが、3年目の91年にはリーグ優勝を達成。日本シリーズでは西武に3勝4敗で敗れたが、3代連続での優勝監督となった。だが、翌92年は10年ぶりのBクラスとなる4位、93年には19年ぶりの最下位に沈み、同年限りで監督を辞任した。
1994年、山本の後任として三村敏之が新監督に。「トータルベースボール」を掲げ、1年目は3位、2年目は2位とチームの立て直しに成功する。迎えた96年、シーズン中盤まで長嶋茂雄監督率いる2位巨人に11.5ゲームの大差を付け、首位を独走。だが、秋口から失速して巨人に逆転優勝を許し、「メークドラマ」の引き立て役となってしまった。その後98年まで指揮を執り、5年間で4度のAクラス入りを果たしている。
1999年、前年に二軍監督として現場復帰していた達川光男が一軍監督に昇格。登録名を「達川晃豊」に変更し、「胃から汗が出る」ほどの猛練習でチーム再建を図った。だが、故障者が続出し、チーム成績は2年連続5位に終わり、成績不振の責任を取る形で監督を辞任した。
2001年、球団の要請を受け山本が監督として再登板。8年ぶりの現場復帰となった1年目は4位ながら、68勝65敗7分けで5年ぶりの勝ち越しに成功した。だが、その後は3年連続で5位。05年には12年ぶりの最下位に沈み、その責任を取る形で監督を辞任した。
2006年、ルーツ以来31年ぶりの外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。内野5人シフトの採用や度重なる退場処分で話題を呼んだ。ファンサービスを重視し人気もあったが、成績は4年連続でBクラスに終わったため、09年限りで退任している。
野村が16年ぶりAクラス、緒方が初の3連覇
2010年、球団OBの野村謙二郎が新指揮官に就任した。1年目から3年連続でBクラスに沈むが、前田健太、丸佳浩と後の投打の軸を育成。13年に1997年以来16年ぶりのAクラスとなる3位に入り、初のクライマックスシリーズ(CS)進出を果たした。
翌14年も巨人、阪神と優勝争いを繰り広げ、2年連続で3位に入った。だが、シーズン終了後に球団に辞任を申し入れ、進出が決まっていたCSで指揮を執り5年にわたる監督生活を終えた。
2015年、緒方孝市が監督に就任。前年オフに阪神から新井貴浩、メジャーから黒田博樹が復帰し、24年ぶりの優勝への期待が高まったが4位に終わる。だが2年目の16年、1番・田中広輔、2番・菊池涼介、3番・丸の「タナキクマル」が定着するなど投打がかみ合い、1991年以来のリーグ優勝を達成。CSも勝ち上がり、日本シリーズに進出したが、日本ハムに敗れ日本一はならなかった。
力を付けたチームは翌17年もリーグ優勝を果たしたが、CSでDeNAに敗れ、日本シリーズ進出はならず。18年には球団史上初のリーグ3連覇を成し遂げるも、日本シリーズでソフトバンクに4連敗し、またしても日本一には手が届かなかった。緒方は19年も指揮を執るが4年ぶりのBクラスとなる4位に沈み、この年限りで監督を辞任した。
2020年、前年一軍投手コーチを務めていた佐々岡真司が新監督に就任。1967年の長谷川以来53年ぶりに投手出身の監督が誕生した。新型コロナウイルスの影響で開幕が3か月遅れたこの年、9年ぶりの5位に終わる。翌21年も4位、22年は最終盤までAクラス争いを繰り広げるも5位に終わり、この年限りで辞任した。
広島はリーグ3連覇後、4年連続のBクラスに低迷している。第20代監督に就任した新井貴浩新監督は、伝統の猛練習で選手を鍛え上げ、強い赤ヘル軍団を復活させることができるか注目だ。
(※引用元 SPAIA)