誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。
KKコンビに対抗心を露わに
「入団発表はそんなに早くしないと思うんですよ。12月15日に会社のボーナスが出るんです。だからその後になるんじゃないかな。やっぱり、現在はサラリーマンですから。ボーナスはもらいたいですよ(笑)」
雑誌『現代』86年1月号のインタビューで、そう笑うのは広島からドラフト1位指名を受けた直後の長冨浩志である。NTT関東では、計画部管理課管理係に籍を置き、書類の整理などデスクワーク仕事を野球シーズン中は朝の8時半からお昼まで、オフは17時までこなす。月給は手取りで11万円ほどだが、そのほとんどは飲み代で消える。休日は本を読んでいるか、酒を飲んでいるか、ガールフレンドとデートするか……という普通の若手社会人と変わらない生活を送る男の手元に、いきなり数千万円の契約金が転がり込んでくるわけだが、父親と弟が銀行勤めなので二等分で貯金すると飄々と語る新人類右腕。しかし、85年ドラフト会議で話題を集めたPL学園の清原和博と桑田真澄について聞かれると、対抗心を露わにする。
「ボクよりも年下でしょう。桑田や清原なんかは六つも下。そんな高校生と比較されたら、大学出(国士館大4年時にロッテ3位指名を拒否)の社会人のボクとしては不満ですよね。ドラフト前のスポーツ紙なんかでは清原1億円で桑田は7000万円なんて書かれていましたよね、契約金が……。ああいうのってアタマにきますよね(笑)」
週べ86年1月20日号のヤクルト1位・伊東昭光との“ルーキー新春対談”企画では、巨人の四番・原辰徳に対して、「あえていわせてもらえばね、情けないって感じですからね」とナチュラルに挑発。なお、同席の伊東も「威圧感がないですね、原さんて。今の自分のピッチングでもある程度、抑えられる」なんてディスるも、これが92年神宮球場でのタツノリ怒りのバット投げホームランの伏線へとなっていく。まだSNSもない時代、炎上知らずのあの頃のルーキーたちはビッグマウスだった。長冨は春季キャンプでも、「ボクは開幕に合わせて調整する」なんて大エースのようなコメントを残し、それを新聞報道で知った阿南準郎監督を「ルーキーが生意気な!」と激怒させる騒動を起こしている。
戦う中で“プロ野球選手”へ
だが、長冨はそれで萎縮するようなタマじゃなかった。先発ではなく、開幕2戦目から中継ぎ起用されるも、マウンドに来た田中尊ヘッドコーチに向かって「ボク、つまんないっす」なんて愚痴る強心臓ぶりを発揮。打者に集中したいから、けん制球のサインを無視して投げたら、ベンチに戻り先輩選手に「みんなチームでやっとんじゃ!」とブチギレられた。それでも実力は本物で、4月17日のヤクルト戦では2番手として7回14奪三振の快投。150キロ台の速球を連発してプロ初勝利を挙げ、周囲を驚かせたが、この日は腰を痛めてコルセットをしてマウンドへ上がっていたという。
なお、チームが巨人と激しい優勝争いを繰り広げていた86年シーズン、夏場に投手陣の救世主となったのは背番号16だった。先発では剛速球やスライダーだけでなく、ゆるいカーブを効果的に使うことを覚え、8月12日の初先発以降は10試合で6完投、1完封含む8連勝の快進撃を見せる。マスコミが王貞治の監督初Vに向けて盛り上がる中、ペナント終盤に逆転した広島は130試合制の129試合目で優勝決定。王巨人はリーグ最多の75勝を挙げるも、勝率で3厘下回り悲願のV1を逃す。長冨は30試合に投げ10勝2敗2セーブ、防御率3.04で新人王を獲得した。
「自分一人でやってるわけじゃないし、点を取ってもらわなきゃ勝てないし、周りの方に助けてもらわないと。まあその辺は、優勝争いをやっていく中で、尖っていたものがそがれていきましたよね。一人だけ突っ張っていてもしょうがないですからね(笑)」(『よみがる1980年代プロ野球[1986年編]』より)
いわば、ビッグマウスの生意気盛りのルーキーは、戦う中でプロ野球選手になっていった。なお、打っては40打数12安打の打率.300、6打点をマークするラッキーボーイぶりも発揮。週べのインタビューでは結婚話を聞かれ、「結婚はないですね。といって、コソッとするかもしれませんよ(笑)。仮に、仮にですよ、今そういう相手がいたとしてもいいませんよ(笑)。いやあ、ボクだって25歳ですからね。そういう人が一人や二人いても、おかしくはないでしょう(笑)。本当のところは内緒ですけどね」なんつって、なぜか自ら匂わせを超えたオノロケ発言をぶっこむご機嫌なヒロシ。しかし、投手王国・広島で次代のエースを担うと期待された25歳は、87年の4月、9回途中までリードしていた試合で味方のエラーをきっかけに追いつかれ、延長で負けてから、思いのほか精神的にその悔しさを引きずってしまう。持ち味の思い切りの良さを失い、しばらく勝てなくなってしまうのだ。毎日試合のあるプロではコンディション維持だけでなく、気持ちの切り替えの大切さを知った。
技巧派としてい生き残りを決断
2年目と右ヒジ痛を抱えた3年目はそれぞれ5勝と伸び悩むも、このままじゃオレは終わってしまう……と奮起した89年には自身初の規定投球回に到達して、オールスターにも出場。そこから2年連続の二ケタ勝利と盛り返すと、91年は初の開幕投手も務めた。先発と中継ぎをこなした92年も33試合で11勝10敗と勝ち越すが、防御率4.56と苦しみ、翌93年は4勝止まり。30歳を過ぎて自慢の球威に衰えが目立ち、徐々に出番を減らしていく。
「今までどおりだったら、(広島)の首脳陣のボクへの評価は変わらないでしょ。大幅に変わらないと、再び戦力として見てくれないじゃないですか」と現状に行き詰まりを感じていた長冨は、わずか2勝に終わった94年オフに自ら職場を変えることを希望し、木村拓也との交換トレードで日本ハムへ移籍。さっそく上田利治監督から投球を見てみたいとラブコールを受け、急きょ秋季キャンプにも途中参加。年末に都内の新居への引っ越しもすませ、ルーキー時代のような気持ちでプロ10年目の95年シーズンを迎える。ここで長冨は、過去の栄光を捨て、技巧派として生き残ることを決意するのだ。
「FA宣言をして広島を出たわけではないので、日本ハム側に「先発で投げさせてください」なんて自分のわがままを言うわけにもいかないじゃないですか。そこは気持ちを切り替えて、「その監督が望むようにしよう」「チームの一つのピースになろう」って決めたんです」(『ALPEN GROUP MAGAZINE』長冨浩志インタビューより)
いつの時代も、腹をくくったベテランはしぶとい。前年の17試合から大きく出番を増やし、日本ハム1年目は44試合で7勝7敗2セーブ、防御率2.62と中継ぎで復活してみせる。スライダー中心の組み立てで、やがて腕を下げ、必死に一軍で生き残った。だが、キャリアハイの56試合に登板して、防御率2.26の好成績を残した97年オフにチームの若返りの方針もあり、まさかの戦力外通告を受けてしまう。来年には37歳、ここで終わりなのか……。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。
失敗が成功へのきっかけに
そんな崖っぷちの右腕に救いの手を差し伸べ、金銭トレードでの獲得を申し込んだのがダイエーの王貞治監督だった。年俸も現状維持の4850万円を提示してもらい、背番号22を与えられた長冨は、単身赴任ではなく家族5人で福岡へ引っ越した。98年は春季キャンプからチーム最年長投手として張り切るが、右太ももを痛め開幕二軍スタート。5月下旬に一軍昇格するも5試合で防御率7.71と結果は出ず、再び降格してしまう。だが、野球は筋書きのないドラマだ。結果的にこの失敗が、37歳の逆転野球人生へのきっかけとなる。
プロ13年目の長冨は諦めなかった。ファーム落ちしている間にサイドスローから、新人時代と同じスリークウォーターヘ再モデル・チェンジを決断するのだ。小さくスッと曲がるスライダーを投げるために試行錯誤を繰り返し、王の助言もありこのフォームに辿り着いた。横手投げでは135キロがやっとだった球速が、原点回帰で140キロ台を軽く超えるまでに回復。「若い頃はこれでも151キロは投げていたんですよ。140キロくらいは、まだ出ますよ」と前を向いた。7月19日に一軍再昇格すると、チームがV争いを繰り広げた9月には5連投をこなすなど、後半戦だけで28試合に投げまくり、3セーブ、8ホールド。防御率1.29の抜群の安定度を誇り、球団21年ぶりのAクラス入りを実現させる。
働き場所はどこでもいい。オレは勝ちたいんだ。「やっぱりビールかけはいいですからね。もう一度やりたいですよ。とにかく優勝争いじゃなく、優勝しないと何にもならないんです」と長冨節でナインを鼓舞。試合中に若手捕手の城島健司の配球に対して頭ごなしに否定するのではなく、実際に投げた上で、ベンチに戻ってから意見を伝え成長を促した。充実のシーズンを過ごした長冨はペナント終了後のある日、王監督から「よく頑張ってくれた。上手投げに変えて良かったな」とねぎらいの言葉をかけられたという。
就任4年目で初の3位と飛躍のきっかけを掴んだ王ダイエーは、翌99年に初リーグ優勝と日本一を達成。長冨自身は不振だったが、2000年には中継ぎが困った時のスーパーサブ的な存在として、再び38試合に投げて防御率2.00とチームのV2に貢献した。
気が付けば、15年近く前に王巨人の初Vを阻止したビッグマウスの新人投手は、フォア・ザ・チームを体現する球界最年長のベテラン投手へと成長して、王ダイエーのブルペンを支えたのである。(文=中溝康隆、写真=BBM)
(※引用元 週刊ベースボール)