カープに鯉

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濃密な伝統、一風変わったカープ史/パ・リーグに加入していたら…

2018年6月29日

濃密な伝統、一風変わったカープ史/パ・リーグに加入していたら…

パ・リーグに加入していたら…

本誌創刊の1958年(昭和33年)、広島カープは5位。優勝はおろかいまだAクラスの経験もなく、いつ抜け出せるかも分からぬ長い低迷時代の中にあった。

もちろん、球団の歴史は、成績がすべてではない。明るい話題もある。

同年7月29日には、57年に開場した広島市民球場で、初めてオールスター・ゲームが行われた。選手入場では、地元の小学生の女の子たちがバレエの衣装チュチュを着て、いまのサッカーのように選手と手をつないで入場する予定となっていたが、パ・リーグでは特に、照れたのか、手をつながなかった選手もいたという。

男女7歳にして同席せず。昔の日本男児は繊細だ。

この試合、前売り券を求め、市民球場のチケット売り場に徹夜組が2000人以上出たと言われる。当時、地元でのカープ人気はすさまじく、キャンプでの有料紅白戦に3万人が集まったという記事もあった。

プロ球団創設は49年11月だ。2リーグ制誕生を前に、各地から多くの参入希望球団が名乗りを上げた時期で、広島はパ・リーグの毎日オリオンズからも誘われたが、結局、セに参入となっている。これもまた、運命の岐路だろう。不人気時代が長かったパ・リーグでは、球団はおそらく存続できなかったはずだ。

ただ、当初、関係者は、選手集めに関しては楽観視していた雰囲気がある。

それはそうだ。もともと広島商高、広陵高を擁する「野球王国」。しかも戦後のプロ球界のMVPは46、48年が広島商出身、南海の兼任監督・鶴岡(山本)一人、47年は若林忠志、49年は呉港中の藤村富美男。日系人の若林はハワイ出身だが、父母は広島出身。要は戦後1リーグ時代のMVPは、すべて広島関係者だった。

当時のプロ野球選手の広島出身者で、プロ球団が簡単に2つは作れたはずだ。

愛称は広島城の愛称“鯉城”にちなみ、カープ。当初は「広島カープス」と複数形にしていたが、鯉は英語では単複同形との指摘があって「広島カープ」に修正している。

監督は前年の大陽ロビンス監督で、広島出身、元広島商監督・石本秀一が志願して就任した。

ファンの浄財で存続

問題はカネである。原爆で大きな被害を受けてから、まだ5年も経っていない。

地元では1社で球団を支える余裕がある大企業はなかった。結果的には、地元の政財界、市民、県民が一体となってバックアップし、日本球界唯一の市民(県民)球団としてスタートを切ることになる。

プロ野球が地域密着を真剣に考え始めたのは、93年サッカーJリーグ誕生が一つの契機となる。広島はプロ球団の理念としては40年以上、先取りしたと言っていい。

ただ、繰り返すが、問題がカネだ。球団経営は思った以上にカネがかかる。

資金不足で選手集めもままならぬ年が続いた。幾度となく球団存続の危機に陥ったが、最大の危機は早々、1年目のシーズンを終えた51年3月だったという。

96敗とチームは負けまくっての最下位。経営も行き詰り、選手への給料遅配が続いた。連盟からは当時下関(山口県)に本社があった大洋との合併を勧められ、ほぼ決まりかけていた。

これを止めたのが広島の市民だった。存続のため各所で、涙と、多少は威かく的な嘆願活動を行い、1つ1つは小さいながら寄付金も集まった。地元企業が市民の熱気に押され、あらためて追加援助を決め、なんとか合併は食い止めた。

終戦後、どん底の貧困の時代は終わっていたが、一般家庭に贅沢する余裕などない。まさに、なけなしの金だっただろう。

当時の本拠地・総合グラウンド前には、四斗樽が募金箱として置かれ、石本監督が自ら動き、後援会制度も誕生させた。創設からしばらくは、まさしくファンの浄財によってカープは支えられたのだ。

一風変わったカープ史

カープの独自性は、周辺に他球団がない状態で70年近い歴史を刻んでいることもある。

似た球団は中日ドラゴンズ。こちらは80年以上とさらに長い歴史があり、他球団との距離は同様にあるが、少し違うのは規模だ。現在の数字であるが、名古屋市の人口は230万、広島市は120万。県で見れば、愛知県720万、広島県285万。

それでいながら両チームの球場の観客動員はさほど変わらない。地元の人たちへの密着度は、広島のほうが濃密と言っていい。

さらに言えば、この球団はファンだけでなく、歴代の関係者、首脳陣、選手のチーム愛が半端ではない(半端ないとは書かない)。低迷期が長く、他球団に比べ給料が安かったこともあるのかもしれない。移籍で大物が加入することも少なく、生え抜きたちを鍛えながら強くなっていくしかなかったのだ。

指揮官からしてそうだ。カネは関係ないと初代監督となった石本もそうだし、球団創設時、巨人から故郷広島に戻った二代目監督・白石勝巳は、60年、初の勝率5割を手土産に一度退任したが、そのときの言葉が「地固めはできた。立派な家はそれに適した人間で建てたほうがいい」だった。

68年、広島東洋カープ初年度に就任した根本陸夫監督もそうだ。目先ではなく、自分はいるかどうかも分からぬ、数年後をにらんで衣笠祥雄、山本浩二(浩司)ら若手を鍛えた。

75年、初優勝を導いた古葉竹識監督もまた、「自分がやめても5年は優勝争いができるチーム」をめざし、厳しい練習に加え、練習環境の整備、先を見据えたスカウティングを進め、実際、黄金時代は古葉が85年限りで退任した後、90年代序盤まで続いた。

以後、逆指名ドラフト、FA制度の影響をまとも受けた低迷もあったが、多くの先輩たちの魂を受け継ぎ、市民球団、育成球団の伝統はぶれぬまま、2016、17年と優勝。新球場「マツダ広島」は連日活況を呈し、新たなる黄金時代を築こうとしている。

今回は、6月29日発売で、広島カープの歴史を『週べ』のバックナンバーの記事で振り返ってみた。インタビューはOBの古葉竹識氏、外木場義郎氏、山本浩二氏、野村謙二郎氏、現役の新井貴浩選手。みな過去何回となく、取材をさせていただいた方たちだ。

いままでにない、一風変わったカープ史になったと自負している。機会があれば、若いファンの方にも、ぜひご一読をいただきたい。(写真=BBM)

(※引用元 週刊ベースボール

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