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早過ぎる死から『25年』――“炎のストッパー”津田恒実の野球人生

2018年7月20日

早過ぎる死から『25年』――“炎のストッパー”津田恒実の野球人生

早過ぎる死からちょうど25年が経った。1993年7月20日、32歳の若さでこの世を去った津田恒実。いつも魂を込めて投げ、マウンドでは鬼の形相を浮かべて広島の勝利に貢献した。“炎のストッパー”と呼ばれた男の野球人生を振り返ってみよう。

1球1球に魂を込めて

高校時代は南陽工高のエースとして、快速球を武器に3年時の春夏の甲子園に出場した津田恒実。82年に協和発酵からドラフト1位で広島に入団した。指名会見の際、「巨人に指名されるのが怖かった。しつこかったから」と言って、集まった報道陣を笑わせた。

開幕一軍は果たしたが、出だしはやや打ち込まれた。それでも途中からエンジンがかかり、7連勝を含む11勝6敗で球団史上初の新人王となった。負けたときは悲壮感漂う表情で黙り込んだが、勝利の後には陽気そのもの。5勝を挙げた大洋戦では「クジラの肉は子どものころからよく食べていました」。また、ヤクルト戦に勝てば、「試合前にジョアを一気飲みしたのが良かったですかねえ」と、常に記者が喜びそうなコメントをしてくれる男だった。

翌年も前半は5試合連続完投勝利もあり、球宴までに9勝。20勝ペースとも言われたが、夏場になって右肩が痛み出し、登録抹消。さらに3年目には右手中指の血行障害に苦しみ、オフには史上初と言われる指のじん帯摘出、移植という手術を受けた。

長いイニングは難しいということでリリーフに回り、86年にはストッパーで起用され、4勝22セーブ。優勝決定の試合では先発の北別府学が大差となった9回裏、津田にマウンドを譲った。津田は胴上げ投手となり、カムバック賞も受けている。

その攻撃的なスタイルも話題となった。1球1球、キャッチャーからの返球を受けるたびに前に出て、打者をにらみつける。捕手の達川光男も、津田を燃えさせるために、あえて全力で返球したという。一度、津田が受け損ない、顔面に当てたことがあったというが、鼻血を出しながら後続を抑えた。

ただ、本当の津田は心優しく、むしろ弱気な男でもあった。高校時代、カーブでかわしにいって被弾したときから「弱気は最大の敵」を座右の銘にしたのも、自分を鼓舞するためだ。不安があり、怖さがあるからこそ、マウンドでは自分を追い込み、自分の中にある、すべてを振るい起こし、1球1球に魂を込めて投げたのだ。それはまるで、自らの体と魂をマウンドで、燃やし尽くそうとしているかのようでもあった。

強い相手には真っ向勝負

強い相手には特に燃えた。86年はライバル巨人に15試合を投げ、失点はわずか1。ほとんどの投手が逃げ回った阪神の三冠王バースを、すべて150キロ強のストレートで3球三振に斬って取ったとき、バースは「ツダはクレージーだ」とコメントした。

さらに同年9月24日には巨人の四番・原辰徳の打者生命を断った1球もある。原は津田の球をファウルした際、手のひらを骨折。以後、全力のスイングはできなかったという。それでも原は「彼が相手だから全力でいった。自分の生涯で一番いいスイングをした。後悔はありません」ときっぱり言い切った。

日本シリーズも5試合に投げ、無失点。87年には47試合に投げ、防御率1.64と冴えわたる。88年にはやや球威が落ちたこともあり、シーズン6度サヨナラ負けを喫したが、大野豊の勧めもあって変化球も取り入れ、89年には最優秀救援投手にも輝く。ただ、ここぞというときのストレート勝負は変わらなかった。

1度は奇跡が起こったが……

しかし、90年に肩を痛め、夏にはヒザのじん帯を損傷と故障が相次ぐ。そして91年4月14日の開幕戦となった対巨人の試合だった。すでに激しい頭痛や極度の倦怠感に襲われていたというが、それをチームに隠したまま8回に登板し、ワンアウトも取れぬまま9球で交代。最後、タイムリーを打ったのが原だった。試合後、津田は池谷公二郎コーチに「二軍に落としてほしい。このまま投げたら申し訳ない」とすがりつくようにして、涙ながらに訴えたという。

病状は脳腫瘍だった。だが、チームメートに心配をかけたくないと、水頭症と偽ってもらった。4月22日には開頭手術で腫瘍除去をしたが、すべては取り切れなかった。その後も隠し続けたが、病状の悪化もあって、山本浩二監督からナインに「本当は脳腫瘍。野球選手として復帰できる可能性はゼロに近い。それどころか命の危険もある」と告げた。病院では体重が半分近くとなり、言葉も失った状態になっていたという。当時、広島は2位だったが、「津田のために勝つんだ」を合言葉に快進撃。逆転優勝を飾っている。

津田の代わりに抑えになったのが先輩の大野豊だ。大野はいつも登板の後、「津田、ありがとう。きょうもお前のおかげで投げられたよ」と心の中で言った。だれもが津田の復活、いや奇跡を祈った。

そして、奇跡は起こった。まさに死の淵から、夫人の看護もあって、歩けるようにまで回復。シーズンオフに広島からは任意引退を告げられたが、「絶対に復活してやる」と誓った。ダイエーに移籍していた親友の森脇浩司には「オレはダイエーで投げるんだ」と言った、森脇も「お前が治ったら、俺の年俸が半分になってもダイエーに入れるように言ってみる」と答えていた。92年にはスイミングプールやジムに通うまで回復。しかし、8月にふたたび症状が出た。

もう……奇跡は起こらなかった。93年7月20日永眠。32歳だった。(写真=BBM)

(※引用元 週刊ベースボール

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