平成の頃から、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。そんな時代の球場で輝いた選手の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。
カープのエースとして君臨した外木場義郎(そとこば よしろう)さんは、プロ初勝利をノーヒットノーランで飾り、その際に将来性への懸念を口にした記者に対して「なんならもう一回やりましょうか?」と言い放った。そして3年後、その言葉通りに2度目のノーヒットノーランを「完全試合」で達成したのだった。
1968年9月14日、広島市民球場での大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)戦で、外木場義郎さんは1人の走者も許さず、9回は3者三振、計16奪三振で試合を締めた。
「条件としたら、そろった、ということでしょうね。ボールのキレもいい、コントロールもいい。そのなかで三振が多く取れた、というのはラッキーだったと思います。確かに三振は狙いにいって取れるものですし、その試合でも狙って取りました。しかし勝負事は何が起こるかわからない。ですから、やられたらしょうがない、という気持ちも持っておかないと」
いかに「これはいけそうだ」と確信しても、ゲームが終わるまではあらゆることを想定しておかなければいけない。あくまで完全試合も「ラッキー」ということだが、ゲームセットの瞬間はどんな心境だったのか。結果的に、「なんならもう一回」も実現したわけだが。
「そんなに派手に喜びは表現しなかったと思います。しかし拳を握って力を込めているはずですよ。ガッツポーズというヤツですか? それは完封したときも出たもんです。で、後から振り返れば『もう一回』がたまたま実現して、記者はもう何も言わなくなりましたよね。あっ、ヤツは本当にやったか、というように思った方もいるかもしれません」
マスコミの見る目が変わった反面、チームメイトの見る目にあまり変化はなかった。自身の気持ちも変わりはなかったのだろうか。
「まだ野球は続くんですから、変化はないですよ。記録はたまたま結果でついてきたんだ、という考えをいつも持ってましたから。投げる以上は自分で決着つけたい。常にそういう気持ちでマウンドに上がっていって、結果が出れば記録的なものにつながるときもある、ということでしかないですよ。それは3度目だって同じです」
72年4月29日、広島市民球場での巨人戦。過去2度と違うのはシーズン序盤で、王貞治、長嶋茂雄を中心とした強力打線が相手で、そして前年まで7連覇しているチームであること。難しい条件がそろったなか、果たして、スイッチが確実に入る瞬間はあったのか。
「4月ですから、バッターよりピッチャーのほうがまだ上かなと。夏場になるとバッターが調子を上げてくるものですが、春先はまだピッチャーのほうが状態はいい。そういうものがちょっと記録につながったかな、とは思ってます」
最強チームの打線相手ながら、時期的に投手有利な面はあった。が、最大の難関としてONの存在がある。
「私は、ピッチャーとバッターはお互いに騙(だま)し合いだと思っています。ところが王さん、長嶋さんはそうならない。打席に入るとこっちが引っ張り込まれるような、他の好打者にはないものが感じられて……。でも、私は自分から勝負を仕掛けて向かっていきました。結果、やられたらしょうがない。ときにはそういう割り切りも必要です。ただ、仮に記録を作る、といったら、巨人でいちばん難しいのは1、2番。そこが塁に出たら、得点力はよそのチーム以上でしたから、絶対に出さないことが大事」
1、2番、もしくはイニングの先頭打者にヒットが出た時点で記録は消滅する。当たり前のことなのだが、外木場さんは何よりそれを大事にしてきたから3度も達成できたのではないか、と思う。
「実際、いちばん大事だと思うんですよ。まずイニングの先頭バッターを取っていく。その積み重ねが、最終的には記録にもつながっていくわけですから。今まで達成した人の考えはいろいろあるでしょうけど、私はそういう考えですね」
図らずも、外木場さん独自のノーヒットノーランに対する考えが明かされた。それこそは運や偶然とは別の、スイッチが確実に入る瞬間に連なるかもしれない。ぜひ聞きたかったことが頭に浮上した。3度目ゆえに、ゲーム終盤になるにつれて、過去2度の経験を生かせるような部分はあったのだろうか。
「記録というものは……、過去の経験を生かしてどうのこうの、考えてできるものではないと思います。私は考えなかったですね。まず勝つことが大事であって。これ、ほかのピッチャーの考えは知りません。けれども、私は記録云々よりも勝負に勝つぞと。自分が出た試合は絶対、勝ったるぞ、という気持ちでマウンドに上がってましたので、結果、記録につながることはある、それだけだと思うんですよ」
僕は以前、何人かの元投手に取材して聞いていた。いわく、投手というのはまず完全試合を目指し、四球を出したらノーヒットノーラン、ヒットを打たれたら完封、完投、最終的には勝利投手の権利がかかる5回まで、というふうに考えるものだと。
「少しずつ目標を下げていくわけですね。なかにはそういう考えの人もおると思います。今の若い人でもおるでしょう。しかし私はそうじゃない。まずは自分で勝ってやる、なんです。3度も達成しているからといって、常に完全試合から下げていたんじゃないです。だいたい、巨人戦のときだって、三塁線、抜かれたと思ったのをダイビングして捕ったり、ツキがあった。確かに完全試合のときだけは、いける! って思いましたけど、1度目はもちろん、3度目の巨人戦も何もなかったんです」
3度目でも、確実にスイッチが入る瞬間などなかったのだ。しばしの沈黙の後、外木場さんはテーブル上の資料に視線を送った。3試合分のスコアが載っている。
「これ、1度目は2対0、2度目も2対0、3度目は3対0です。どれも非常に競った試合で、1回から9回まで緊張のしっぱなしです。つまり、相手のピッチャーもよかった、いうことです。これがワンサイドゲームだったら、3つともできてないでしょう。だからね、最初にも言いましたけど、そういう記録は狙ってできるものではない。狙って本当にできるものなら苦労はしませんよ」
「苦労」と言いたくなるのも、逆に3度も達成できたからこそでは、と思う。あらためて、その投手人生のなかで、3度の記録はどのように位置づけられているのか。
「じつは私自身、あんまり思い入れやこだわりはないんです。鉄砲も数打てば当たるよ、ぐらいの。フフッ。周りの人にすれば、『3回もやってすごいんじゃね』となるんでしょうけど」
「鉄砲も──」とは、間違いなく外木場さんにしか言えない言葉だ。では、そう言える野球人から見て、西武の西口文也(当時)はどう映っているのか。というのも、西口には9回2死までノーヒットノーランだった試合が2002年8月、05年5月と2度あって、さらに05年8月には、9回までパーフェクトに抑えながら味方が得点できずに参考記録となる、という試合があった。いわば、最も外木場さんの記録に近づきながら、果たせなかった投手なのだ。
「ああ、西口。あと1人が2回でしょ? よっぽど何かあるんだろうな、と思いましたよ。運もあるでしょうし、巡り合わせもあるんでしょう。だけど、そこまで行くこと自体、力がないとできないんでね。だから、最後のバッターを打ち取るのに、自分のいちばんいいボール──西口の場合はスライダーかもしれません。じゃあ、そのスライダーを多投したらですね、どんなにキレがよくてもバッターは目が慣れてついていくわけです。だったら、一球で仕留めてほしい」
自分のベストボールは多投せず、最後までとっておいて一球だけ見せる。それは記録達成の鍵でもある。外木場さん自身に記録へのこだわりはなくとも、いざ周りから見る立場になったとき、ぜひとも達成してほしいものなのだろう。
「今の話はね、別に記録達成を目前にしたときに限ったものではないですけど、もうちょっと工夫したら西口もできると思う。普通のピッチャーは1度ならチャンスはくるけども、やっぱり3度もそういうところまでくるとなればね、また近いうちにまた可能性があるんじゃないでしょうか。ぜひ、やってくれることを期待しておりますよ」
きっと、その期待感は西口の記録だけに向けられたものではない。1975年の20勝エースから見て、好投手の第一条件とは何か。
「やはり、バッターに向かっていく気持ちを持っていることです。ただし、決して自分1人で勝負じゃない。キャッチャー含めて周りに8人守ってくれてるんですから、みんなの代表で自分が勝負しとるんだと。そういう姿勢を常に持っておれば、どんな重圧がかかる場面でも難しく考えなくなって、常に気持ちはバッターに向かっていく。100パーセント。これはずっと変わらなかったですね」
前に座る捕手と、後ろで守る7人への信頼。9人の代表で勝負しているという姿勢が頭をクリアにし、対打者に100パーセント集中できる。そう言い切れる主力投手、果たして何人いるだろうか。
「今自分が持っているものを精一杯、パーフェクトに出すということです。じゃあ、その考え、姿勢はどこから始まると思いますか? マウンドじゃないんです。私の場合、普段着からユニフォームに着替えたときでした。普段はみんなと雑談したりしても、ユニフォームは正装ですからね、グラウンド上の。だから着替えた瞬間、アイツはどうなったんや? っていうぐらいにカッと変わる。それぐらい集中してやるという」
僕はハッと気づいた。外木場さんにとって、ユニフォームを着たときこそスイッチが入る瞬間だった。その上で100パーセント、打者に向かっていって、自分の技量、力量をパーフェクトに出したことによって3度の大記録が球史に刻まれ、実働15年で通算131勝という成績を残せたのだ。
「ユニフォーム着たら、記者連中と雑談なんかする気になれんのですよ。だから『なんやアイツ、全然、愛想がないな』とか、よう言われましたよ。しかしね、ユニフォーム着たら勝負ですから。グラウンドは勝負ですから。常にそういう気持ちを持ってましたから」(高橋安幸)
(※引用元 web Sportiva)